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一 前夜(4)

(カテゴリ:死生の章

絶体絶命に追い込まれたとき、慌ても逃げもしない。

これが、沛公の肝の力であった。彼は、どうせ逃げても将来がないことを、分かっていた。それならば、前に進んで賭けた方がよい。いずれ必ず死ぬよりは、いま死ぬほど危険な方に賭ける。沛公とは、それができる男であった。
項伯が、中に通された。
張良が、沛公に紹介した。
「上将軍項籍の季父(おじ)、項左尹です。本日、私に明日の総攻撃のことを伝えに来られました。」
項伯は、沛公に対面した。
彼は、上の座に通された。沛公は、下の座に着いた。
「沛公劉邦で、ござる―」
沛公は、項羽の季父を深く伏し拝んだ。
項伯が、言った。
「楚の元老であられる沛公が、そのように謙譲なさることは、ないのではござりませんか、、、」
沛公は、答えた。
「左尹は、それがしより年長者です。沛の郷里の者ですら、年長者には引き下がって席を譲ります。それがしは、礼儀により左尹にお仕え申し上げます。」
彼は、卮(し。さかずき)に並々と酒を注いで、持って来させた。
沛公は、卮酒を抱いて項伯に薦めて、言った。
「まずは、叟(そう)の長寿を言祝がせてくだされ―」
項伯は、薦められた酒をするすると飲んだ。
飲み干された卮を恭しく取って、沛公はもう一杯を薦めた。
項伯は、言われるままに受け取った。
沛公は、項伯が杯を開けるまで、無言で控えていた。
日頃は傍若無人な沛公であったが、この時ばかりは相手に作法通りの礼を尽した。
項伯は、沛公と直接対面するのは、これが始めてであった。だが、彼の評判は楚軍の中で十分すぎるほどに聞こえていた。
人を人とも思わぬ、野人。
狡猾な智恵を持つ、成り上がり者。
つまりは油断のならぬ、一個の姦雄という評判であった。
だが、項伯はこうして彼と近くに寄って接したとき、沛公が意外と常識を知る人物であることを、知った。まことに印象深い風貌の持ち主であるが、行動は奇矯ではなかった。しごく当たり前の礼儀を、当たり前にこなすことができる。それは、成熟した大人である証拠であった。項伯は、今夜初めて沛公に会って、彼の等身大の人間像に触れたような気がした。
項伯は、二度目の杯を飲み干した。
沛公が、膝を進めて彼に近寄った。
項伯の手を取り、沛公は言った。
「それがしを、あなたの義弟にしてくだされ。」
沛公は、にこりと笑った。
項伯は、自分が彼に引き込まれていくのを、感じてしまった。これこそが、沛公の芸であった。
項伯が無言のままでためらっているのを見ると、沛公は訥々と語った。
「あなただけが、頼りでございます。それがしは、甥御どのに敵対する心など、何一つ持っておりません、、、どうか、甥御どのに、我が真意をお伝えくださいませ!」
項伯の手を取った沛公が、震え始めた。
彼は、いつしか涙を流し始めた。
「甥御どのは、どうしてそれがしを討とうとするのか、、、それがしは、秦を破って民のために関中を治めただけなのです。それが、勝ち誇った甥御どのにとっては、目障りなのでしょうか。いったい何のために、我が軍の将卒は戦ったのでしょうか、、、」
彼は、さめざめと泣いた。
項伯は、彼に礼儀を尽されてここまで願われたとき、断ることはできなかった。
両者は、その場で即席に縁を結ぶこととなった。
明日のための、縁である。
項伯は、沛公のために項羽を説いて守らなければならなくなった。
結縁の儀が終わった後、項伯は言った。
「これより、私は戻って項籍に沛公のお言葉を伝えましょう。沛公よ。あなたは、明朝項籍のところにご自身で赴かれよ。彼が許すかどうかは、あなたの弁明次第です。」
沛公は、項伯に深く謝した。
「― 弁明いたしましょう。朝が明けると共にこの身とわずかな随伴のみで訪れると、お伝えくだされ。」
こうして、項伯は沛公の意向を告げる役目を負った。
項羽のもとに戻る前に、張良が項伯を引き止めた。
彼は、項伯に聞いた。
「項軍の中で、最も沛公を殺すことに熱心な者は?」
項伯は、答えた。
「亜父、范増です。甥を後押ししたのも、彼の進言です。」
張良は、言った。
「范増か。彼は、野心なく項王に尽している。手強い、相手であるな―」
明日は、生きるか死ぬかであった。
范増は、自分たちを殺しに来るであろう。
この賭けが吉凶どちらに転ぶか、張良もまた分からなかった。
項伯は、項軍に駆け戻った。
項羽に会見し、沛公が明朝謝罪に訪れる旨を、告げた。
項伯は、甥に言った。
「彼は、敵意なき上に大功者であるぞ。彼を討つのは、正義とは言えない。籍よ。私などはお前の才に全く及ばないが、大才あるお前でも正義不義は分かるであろう。彼が、ようやく謝罪に来るのだ。お前は、受け入れなければならない。」
最近の項伯は季父でありながら、甥に対して何の進言もできない存在と成り果てていた。家臣にもできない項伯は、項軍の邪魔者扱いであった。だが、今夜は項羽に対して責任を果たした。彼は、甥に対して戦を急ぐことを待つように、切々と説いた。
項羽は、言った。
「― 会いましょう。」
項伯は、喜んだ。
「そうか!よく聞いてくれた。」
項羽は、続けた。
「斬るかどうかは、私が沛公を見て、決めることにいたします。」
項伯は、表情を曇らせた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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