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ニ 対峙(1)

(カテゴリ:死生の章

翌日の朝、沛公は覇上を起った。

従う者は、百余騎のみ。
樊噲に夏候嬰、それに紀信、靳彊(きんきょう)といった勇士どもが、主君の伴をした。彼らは、沛公の股肱であった。今日の主君の危機に、当然に死生を共にする覚悟であった。
張良は、韓軍の代表として項羽のもとに向かった。
出発の前、彼は従者の陳麗花に言った。
「― 戻れるかどうかは、分からないよ。」
彼は、そう言いながら表情は暁のにぶい光を受けて、まことに穏やかであった。麗花には、とても生死の瞬間に飛び込もうとしている人の表情とは、見えなかった。
麗花は、主君がいつもの通りに心静かであるのを見て、彼が危難にあるとはとても思えなかった。
彼女は、言った。
「― 危ないならば、お逃げになればよろしいのに、、、」
彼女は、思った。
(沛公など、あなたが賭けるに値する、人物でしょうか?)
張良は、彼女が言いたいことを察知して、首を横に振った。
「沛公は、守らなければならないのだ。」
麗花は、言った。
「公子は、項王の天下を、危ぶんでおられるのですね?― それで、沛公を生かそうとなされる。」
張良は、彼女に答えることなく、微笑んでかすかにうなずくばかりであった。
去っていく張良の馬車を見送りながら、麗花は思った。
「必ず― 戻って来られるでしょう!」
そう思いながらも、彼の天運を祈らずにはいられなかった。

項羽の陣舎は、戲(き)の西方、新豊の鴻門にあった。
この鴻門の地が、本日の会見の場所であった。
沛公の一行が、到着した。
両者が、以来久しぶりに対面した。
「彭城以来で、ございますな。上将軍―」
沛公が、拝礼して言った。
「ついに、関中に入ることができましたね、沛公―」
項羽が、微笑んで返した。
沛公は、項羽を見た。
彼は、すっかり変わっていた。
彼の若く整った表情は、変わっていなかった。変わったのは、彼の気概であった。彼は、自分の力を圧倒的に信じていた。彼の自分に対する確信は、彭城以来揺るぎないものに成長していた。若き覇王が、沛公の前にあった。
沛公は、剽軽(ひょうげ)て見せた。
「― 大きくなったもんだな、義弟。」
そう言って、莞爾(にこり)とした。その笑いは、項羽を称える笑いであると同時に、拝礼も返さぬ義弟の傲慢を刺した笑いでもあった。
項羽の後ろの者たちが、ざわめいた。
項軍の中では、沛公の言葉は決して許されない冒涜であった。
だが、項羽は周囲の喧騒に動じなかった。
彼もまた、笑みを返した。
「― あなたは、少しも変わっておられぬ。」
そう言って、拝礼した。
それから、沛公は項羽への弁明に入った。
「それがしと上将軍は、力を合わせて秦を攻めました。上将軍は河北で戦い、それがしは河南で戦ったまでです。ですが― まさかそれがしが、先に関中に入って秦を倒し、こうして上将軍と再びこの関中で会見するとは、思いもよりませんでした。今や、小人が中に入って虚言を費やし、それがしと上将軍との間を裂こうとしております、、、」
彼が言った小人とは、項羽以外の全ての者たちのことであった。
項羽は、彼に答えた。
「公の左司馬の曹無傷が、私に進言して来たのだ。」
彼は、小人の名前を特定した。
沛公は、内心左司馬の裏切りに舌打ちしたが、表情には出さなかった。
項羽は、言った。
「― この籍が、どうして沛公を疑おうか。私は、あなたと共にこれからも進んでいきたいと、思っているのですよ。」
項羽は、ふふと笑った。
沛公は、はっと笑った。
両者は、哄笑した。
范増は、後ろで顔をしかめた。
(軽軽しくも、内通者を口に出すとは、、、)
范増は、やはり項王には外交の駆け引きは無理だと、思った。早くも、彼は沛公に喜び始めている。このまま項王に沛公と談判させ続ければ、必ず項王は沛公を許してしまうだろう。
范増は、ここで発言した。
「我が軍と沛公が、ようやく一体となりました。勝利のために、祝いの席を設けましょうぞ!」
范増は、さあ場を変えよ変えよと、総員をせき立てた。
酒宴の席が、すでに用意されていた。
あわただしく人々が動く中で、沛公がまたも軽口を叩いた。
「酒を、飲めるようになったか?」
項羽は、答えた。
「私は、飲みません。」
沛公は、笑って言った。
「主人が、飲みもせぬ酒宴か、、、まあ、いいや。」
沛公が宴席に向かった後で、范増が項羽を引き止めた。
彼は、腰に付けた玉板を見せた。
「分かって、おられますな。この宴席の意味は―」
そう言って、彼は玉板をじゃらりと振った。
白玉の円い板は中心に穴がうがたれて、穴から外に向けて一角が通り道のように切り取られていた。
玦(けつ)と言う名称の、玉板であった。
范増は、言った。
「この玦は、決断の合図です。必ず、決断なされよ―」
范増は、もう一度玉器を項羽に見せて、じゃらりと振った。
項羽は、彼に言葉を返さず、宴席に向かった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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