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ニ 対峙(2)

(カテゴリ:死生の章

本日の酒宴の席は、もとは項羽が沛公を攻める前祝いとして諸将をねぎらうために、范増が用意したものであった。

ところが、今朝沛公が自ら項軍の中に飛び込んで来たことによって、予定が狂ってしまった。
范増は、もちろんこの場で沛公を殺すつもりであった。それで、彼を宴席に誘い込んで、抹殺することに決めた。
(殷通、宋義を葬った時の、再来だ。諸将の前で沛公を斬り捨てることによって、彼らの項王に叛く心まで挫いてしまうに、如くは無し、、、)
范増は、項王が沛公を斬れなければ、自ら指揮して殺すつもりであった。
宴席は、主役たちに要の席を用意していた。
項羽は、西の席に座り、東を向いた。
沛公は、南の席に座り、北を向いた。
范増は、沛公に相対して北の席に座り、南を向いた。南面の席は一番の上座であり、北面して座る客を迎える家長の席である。彼は項羽の亜父であり、ゆえに最上の席に座るというのが、名目であった。だが范増が主催者の席に着いたことは、彼が宴席で行なうべき陰謀の世話役であることを、象徴していた。
項羽の座る側の席には、主だった項氏一族が並んでいた。
その中に、項伯もいた。
項伯は、彼の正面の席に、張良子房が座っていることを認めた。
(やはり、来られたか、、、沛公と、生死を共にするお覚悟か。)
項伯は、暗い気分になった。
東の席は、諸侯の席であった。張良は、韓王国の一人として、今朝鴻門に到着した。そして、この宴席にも当然ながら参加したのであった。
張良は、この酒宴の意味に、疾うから気付いていた。
今、沛公はただ一人で客の席に座っていた。扈従の者たちは、この席に入ることが許されていない。沛公は、引き離されたのであった。
(もし項王が動けば、全ては終わる。生き残れるか否かは、沛公が項王の心を掴むことができるかどうか。その、一点だけだ、、、)
張良は、今は策を弄するよりも、両雄の心の戦に全てを任せることとした。
彼は、正面に項伯の姿を認めた。
項伯が、彼を見た。
彼は、無言で項伯を見据えた。
両者の目が合ったとき、項伯はたじろいだ。
張良は、懐をまさぐった。
項伯の目に、張良の懐中のものが見えた。
項伯は、この華奢な貴公子の決意を見て、冷や汗が出た。
(懐中の刀は、死をも覚悟しているというのか、、、さすがに、博浪沙の男!)
だが、今の項伯には、何をすることもできなかった。
諸侯が着座して、今日の宴席が始まった。
沛公は、端然と座って諸侯からの杯を受けた。
多くの各国の諸侯にとって、沛公と会うのはこれが始めてであった。項羽に付き従って関中に入った彼らは、楚軍に別働隊がいたことなど、すっかり忘れていた。この沛公が、十万の軍の将であるという。誰の目にも明らかな猛勇を見せ付ける項羽に比べて、沛公はしごく平凡な人物に見えた。
「当陽君。久しぶりであるな。」
沛公は、酒壷を抱えてやって来た黥布に、声を掛けた。
「、、、」
黥布は、言葉を返さなかった。彼はこれまで項羽に従って秦を倒し、今や項軍の柱石と目されていた。新安での項羽の大殺戮にも、彼は手を貸した。もはや項羽の影響の下から抜け出せそうにないほどに、黥布は絡め取られていた。もともと寡黙な彼であったが、今や言葉を発することすら稀となっていた。
それから沛公は、亜父范増の席に酒を持参した。
「亜父の健康を、この沛公が言祝ぎましょうぞ―」
沛公は、范増の杯に酒を注いだ。
范増は、沛公をじろりと見据えた、
沛公は、無言で睨み返した。
両者は、それ以上無言であった。沛公は、席に戻っていった。
范増は、項羽に目を向けた。
「項王―」
彼は、声を掛けた。
范増は、腰の玉板を手に抱え、じゃらりと振って見せた。
項羽の目が、ぴくりと動いた。
范増は、玦(けつ)をもう一度振った。
「― 決、、、決です。」
范増は、口ごもった。
項羽は、目を鋭くした。
だが、彼が動く前に、機先は制された。
「せっかくの宴席で酒も飲まなければ、人は寄って来ませんぞ、、、!」
項羽の目の前に、沛公その人が座りに来たのであった。
項羽は、沛公と視線を交わした。
彼の灰色の目が、沛公を見た。
沛公は、視線を逸らさなかった。
項羽は、言った。
「― あなたは、これから後、何を望まれるのか。」
項羽は、視線を狼の目にした。凄まじい殺気が、沛公を襲った。もし目を背けて諂うだけならば、沛公とて私と共に生きることはできぬ。この場で、斬り捨てる― 彼は、そう思った。
しかし、沛公は目を逸らさなかった。
彼は、愚者のように呆然とした表情になった。誰をも振り切って進む孤独な項羽を、悲しんでいるかのような表情であった。
沛公は、項羽の問いに答えた。
「臣は、関中が欲しいだけなのです。天下は、項王が持たれよ、、、」
沛公は、ついに彼のことを項王と言った。
両者は、目と目を合わせ続けた。周囲まで冷え付く、瞬間であった。
項羽は、軽くため息を付いた。
「考えて、、、おこう。」
彼は、ついに沛公を斬らなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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