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三 剣と盾と(1)

(カテゴリ:死生の章

躱(かわ)された。

沛公に躱された後に、范増は二度も玦(けつ)を振って見せたが、項羽の殺意は急速に引いていた。
(― 斬れぬ。)
項羽は、自分の殺気と渡り合った沛公の先程の瞬間が、何やら嬉しく思った。最近の彼の周囲にいたのは、彼の目に怯えてひれ伏す人間どもばかりであった。各国の諸侯が、特にそうであった。項羽は、彼らの諂いの真意を見て取っていた。彼らは項羽を理解できないために、近寄りたくないから目を逸らして引き下がるのである。項羽は、そのような高位の者たちを心から軽蔑していた。彼から目を逸らさないのは、やはり沛公ただ一人であった。
范増は、項羽の口元にふふと笑みがこぼれるのを、見て取った。
范増は、みるみるうちに目を厳しくした。
彼は、席を立った。
それから無言で、一人宴席の外に消えて行った。
范増は、外で番をしていた項軍の兵卒に、耳打ちした。
兵卒は、直ちに項軍から一人の若者を連れて、戻って来た。
「項荘。お前は、年若とはいえ項氏の一族だ― 宴席に入る、資格がある。」
范増が呼んで来たのは、項羽のいとこの項荘であった。これまで、項羽と共に激しい戦の数々を戦って来た。彼は項王の旗本として、忠良の勇士であった。
范増は、項荘の耳にひそかな声で語った。
項荘は、ためらった。
「ですが、、、」
范増は、彼の言葉を遮った。
「主が過つときには、臣は主のために、代わって事を決するのに躊躇してはならぬ。それが、臣道である。項王は、沛公を殺めることができない。だがここで沛公を除かなければ、必ず後に項王の殃(わざわい)となる。お前は、項王のために、項氏一族のために、あの大敵を亡ぼすのだ、、、」
老いた亜父の言葉は、重かった。
何食わぬ顔をして亜父が宴席の座に戻った後に、若き武人が招かれて来た。
「項氏の若卒が、沛公にお目通りしたいと願っております―」
范増は、満座の者たちに告げた。
「ほお、、、若いな。」
沛公は、座の中央に進み出た、軍装の若者を見た。
「― 項籍のいとこ、項荘と申す。」
項荘は、沛公に一礼して、酒杯を進呈した。
「どうか、公の千秋万歳を言祝がせてください。」
沛公は、喜んで差し出された酒杯を受けた。
項伯は、彼の登場に不審の感を持った。
「はて、、、どうして、わざわざ荘が?」
彼は、范増を見た。
范増は、笑みもなく沛公と項荘の二人を見ていた。
背後から、項荘の背が震えているのが見て取れた。若い彼は、次の動きに踏み切ることができなかった。
范増は、大きな声を掛けた。
「さて!― 項荘。年若は、何ぞ座興に芸を見せんかい?」
項荘は、背中からせき立てられて、あわてて数歩引き下がった。
座の中央に戻って、項羽たち一族の座る方角を向いた。
「、、、君王は沛公と宴を開いておられますが、軍中とて何の娯楽もございません。願わくは、それがしの剣舞などご披露させていただきたい―」
そう言って、項荘は剣を抜いた。
項羽は、笑っていとこに言った。
「荘。お前に、剣舞ができるのか?」
項荘は、笑って答えた。
「それがしは、剣技の訓練を投げ出した表兄(あにうえ)とは、違います―」
剣の舞は、楚の貴族たちの教養の一つであった。
いとことは違って年長者の指導に素直であった項荘は、見せる剣の芸についてはいとこよりもずっと上達していた。
「見事であるぞ、ははは!」
満座から、歓声が湧いた。剣先が弧を描いて、ゆるやかに舞った。
宴席は教養もない、武骨な者どもの集まりであった。剣舞に歌を添えようとも、言葉を知らなかった。この座中で詩の心を知っている者など、じつに項羽ただ一人であった。
誰かが、言葉ならぬ声を挙げ始めた。
「填(てん)。填。填填。填。」
軍鼓の音の、模倣であった。この即興に、皆が興じて乗った。
「填!填!填!填!」
一同は、剣の動きに合わせて、鼓の声で囃し立てた。項荘の剣は、ゆるやかに舞い続けた。
「填!填!填!填!」
しだいに、声の調子が早くなった。
剣の動きが、早くなり始めたからであった。
項荘は、旋回しながらじりじりと南に向けて歩を進めて行った。
「填!填!填!填!填!填!填!填!」
剣は、沛公に近づいていった。
剣の動きは、ますます速くなった。
「填!填!填!填!」
「伯!」
誰かが、鼓の擬声の合間に、別の声を出した。
項荘の剣が、大きく旋回して振り下ろされた、そのとき。
剣の動きが、かきん!と止まった。
項荘は、はっと驚いて横を向いた。
「甥よ。剣舞は、二名の対で行なうのが、正式であるぞ、、、忘れたか。」
項伯が、剣を抜いて項荘の剣先を遮っていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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