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三 剣と盾と(2)

(カテゴリ:死生の章

項伯の名を叫んだのは、張良であった。

項伯は、張良の声に押されて、立ち上がって甥の項荘の剣を止めた。
「おじ上、、、!」
項荘の剣は、もしそのまま振り下ろされていたら、確実に沛公を殺めていたであろう。
危ない、一瞬であった。
両名を目の前で眺める沛公は、自分が死の寸前にあったことを理解した。
「、、、」
彼は、無言で項荘を睨んだ。
項荘の向うに、范増の姿が見えた。
彼の表情は、憤怒に変わっていた。
(左尹、、、お主は!)
范増は、項伯の介入に腸(はらわた)がちぎれる思いであった。
その項伯は、もしこの場に張良がいなければ、動かなかったであろう。だが彼は、張良の声に押されて、立ち上がってしまった。その結果を知ることなど、今の瞬間の彼にはできなかった。
沛公は、項伯に声を掛けた。
「義兄―」
彼は、そう言ったきりで、一礼した。
礼を捧げられた項伯は、もう後に引けなかった。
「― 二名の対で、剣舞をお見せしましょうぞ!」
彼は、満座に宣言した。
項伯と項荘の二名による、剣舞が始まった。
二人は、剣と剣とを合わせて激しくかつ華麗に舞った。
彼らの見事な演技に、満座の者は再び打ち興じていった。
項荘は、亜父范増を垣間見た。
老人の顔は、憤怒に燃えていた。
(討て、、、孺子、討たんか!)
彼の怒る目は、若者をせき立てた。
項荘は、忸怩たる思いに駆られた。だが、季父(おじ)との舞いの律動に釣られて、斬る動作に移ることができない。表面は華麗であったが、演者の空気は張り詰めていた。若者の動きは、いつしか年長者に丸め込まれていった。范増は、刺客の人選を誤った。
張良は、無言で座っていた。
彼は、上座の范増を見た。
范増の顔には、激しい怒りと無念とが入り混じって、ありありと表現されていた。
張良は、思った。
(危なかった、、、)
先程の瞬間が無事に通り過ぎたのは、奇蹟とも思えた。だが、奇蹟に安住しては、いられない。
(亜父は、あきらめていない。次の手を、必ず打ってくるであろう。)
范増が動く前に、何としてもこの座から立ち去らなければならない。
張良は、立ち上がった。
宴席から、静かに退席した。
彼は、陣営の門に向かった。
「賢成君。賢成君樊噲を、呼びたまえ、、、!」
張良は、門の外に待機する沛公の一同に、呼ばわった。
樊噲が、やって来た。
浅黒い肌をした巨体の男は、相変わらず寡黙であった。
彼は、張良を見て、一礼した。
張良は、沛公軍の中で彼こそが最も忠義の士であることを、見抜いていた。咸陽宮で掠奪に走ろうとした沛公を二人で諌めたときから、危機に際して生かすべきはこの男であると、張良は信じていた。
張良は、樊噲を見上げながら言った。
「君だけが、万人の肝をひしぐことができるだろう― 沛公を、危難から救うのだ!」
張良は、宴席の空気を彼に説明した。
樊噲は、言葉少なに答えた。
「承知しました。臣、宴席に入り、沛公と生死を共にせん。」
彼は、張良にもう一度拝礼した。
それから、自分の大盾を掴んだ。彼の巨体に合わせた、門扉のように大きな特製の盾であった。
彼は、盾を抱えて、陣営の門に向けて歩んでいった。
門の両脇を守る衛士が、彼を呼び止めた。
「おい、呼ばれてもいない者が、、、うわっ!」
右の衛士が、樊噲の大盾で付き転ばされた。
「おのれっ!」
左の衛士は、戟(げき)を構えて乱入者を阻止しようとした。
「、、、退けい!」
樊噲は、盾をぐいと押し出した。
戟を持った衛士は、たちまち真後ろに飛ばされていった。
剣を振るうまでも、及ばないことであった。
樊噲は、盾を右に左に押しやり傾けながら、兵卒をやり過して進んでいった。
張良は、門の外で彼が進む樣を見ていた。
夏候嬰たちが、駆け付けて来た。
張良は、夏候嬰に言った。
「沛公に、樊噲に、この張良子房、、、三人で、項羽一人と勝負だ。」
夏候嬰が、言った。
「勝負の、行方は?」
張良は、答えた。
「天運あれば、生き残れるだろう。」
真にこの瞬間において、願うは沛公の天運のみであった。
彼は、夏候嬰に後のことを託して、再び宴席に戻って行った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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