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四 笑と怒と(1)

(カテゴリ:死生の章

宴席の外が、にわかに騒がしくなった。

何事と諸侯が耳をそばだてる間もなく、酒宴の陣幕がぶわりと開かれた。
満座の諸侯が、振り向いてあっと驚いた。
雲を付く巨体とは、彼のことであった。
岩石のような肌をした恐るべき男が、大盾を担いで西の帷(とばり)から乱入して来た。
東の正面には、項羽が座っていた。
樊噲は、目を瞋(いか)らせて項羽をはったと睨み付けた。
全員が、沈黙した。
巨人の息遣いだけが、その場の物音として残された。全身は怒気に満ち満ちながらも、呼吸は不思議なまでに静かであった。男の一息ごとに、人間どもを圧迫して恐怖させた。それは、まさしく必殺を期した野獣の息遣いであった。
項羽は、挑まれて凄まじい視線を返した。
彼は、言った。
「― 獣か!」
そう言って、腰の剣に手を掛けた。もし獣ならば、斬り捨てるまでであった。
樊噲は、答えた。
「― 武人である。」
そう言って、大盾をがしゃん!と地に立てた。
宴席が、地響きを立てて揺らいだ。杯盤は崩れ、酒が淫らにこぼれ落ちた。諸侯は、おののくばかりであった。
項羽は、さらに言った。
「― なぜ、お前の顔は黒い!」
樊噲は、南方の血を引いた武人であった。彼の黒く大きな顔は、中国の民とはかけ離れた異相であった。
樊噲は、笑って答えた。
「― 我が心の燃える尽忠が、体を焼いたからです。」
樊噲は、顔面に笑みを見せた。彼が笑うなど、同僚ですら見たことがなかった。樊噲は、項羽から狼の目で挑まれても、一歩も引くことがなかった。項羽は、今日また一人、自分を恐れぬ男に遇った。
いつの間にか、張良が諸侯の席に戻っていた。
彼は、後ろに控える武人について、紹介した。
「沛公の参乗、樊噲でございます。」
項羽は、彼が沛公の股肱であることを、知った。
「樊噲、、、沛公のために、尽忠を見せるか、、、」
項羽は、みるみるうちに体が火照った。
だが彼は怒りが高まっていくうちに、さらに心の奥から、全く別の感情が湧き上がって来ることを感じた。自分に諂わぬ敵を知った怒りは、快さを伴っていた。彼の闘争心が、喜んでいるのであった。平伏する諸侯の間抜け面ばかりに囲まれて、天才の彼は人間に絶望しかかっていた。その彼は、いま自分と対等である人間たちの姿を、ようやく見ることができた。
項羽は、いつしか笑い顔を見せていた。
快活な気分で、言った。
「壮士だ!、、、彼に、斗酒を与えよ!」
項羽は、命じた。
卮(さかずき)に、なみなみと大酒が盛られて来た。
樊噲は、拝礼して謝し、立ち上がった。
彼は、ついさっきまで剣舞が行なわれていた宴席の中央に、進み出た。剣舞の両名は、樊噲の登場によってもはや宴席の主役を奪われてしまった。
樊噲は酒を受け取り、立ったままで一気に啗(くら)い尽くした。
項羽は、喜んだ。
「よし!、、、彼に、彘肩(ていけん)を与えよ!」
命じられて、豚の肩肉が持って来られた。
項羽は、樊噲に聞いた。
「生肉だ。食えるか?」
持ち込まれた大きな塊は、調理前の肉であった。
樊噲は、大盾を地面に横たえた。
それから盾の上に肉塊を乗せ、剣で切り割いて啗った。
項羽は、さらに喜んだ。
彼は、樊噲に声を掛けた。
「壮士!、、、もう一杯、飲めるか?」
喜びのあまりに、客に飲み食いばかりを勧める彼であった。まことに、子供っぽい作法であった。
しかし、樊噲は無言でうなずいた。
再び、斗酒が彼のところに届けられた。
樊噲は、手渡された大酒を、片手で持った。
彼は、項羽に酒をかざして、言った。
「臣は、死すら恐れません。ましてやこれを飲み干すことなど、辞するまでもござらぬ。だが、項王よ― あなたは一人座って、我らを疑われている。」
樊噲は、項羽を見据えた。
項羽は、目を鋭くした。
樊噲が、立ち上がった。
「沛公と、十万の軍。暴秦を破り、咸陽を陥(お)としたその功績は、限り無し。掠奪をせず、宮室を封じて覇上に去る。その潔さは、他軍にも無し。項王、、、あなたは、我らを賞するのか。それとも、小人の言に惑わされて、誅殺するつもりか!」
挑み掛かる彼に、項羽もまた立ち上がった。
樊噲は、言った。
「杯を、お取りになられよ、、、飲みましょうぞ。」
項羽は、樊噲を睨み付けた。
それから、言った。
「よし、、、お前に、応えよう。」
彼にもまた、卮を持って来させるように命じた。
樊噲と同じ大酒が、項羽に手渡された。
樊噲は、項羽に向けて静かに頭を下げた。
それから、一気に飲み干した。
項羽もまた、彼の後に飲んだ。
彼は、普段酒を飲まない。全く慣れぬ酒の味は、咽をひりつかせて胃壁を荒れ狂わせた。
しかし、苦痛にも負けず、彼は飲み干した。
項羽は、飲み干した卮を、樊噲に見せた。
樊噲は、莞爾(にこり)と笑った。
項羽もまた、笑った。
それから、声を上げて笑い立てた。
「本日は、何と素晴らしい酒宴であるか!、、、座れ。樊噲、まあ座るがよい!」
彼の明るい声に、諸侯は大いに沸いた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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