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四 笑と怒と(2)

(カテゴリ:死生の章

「― いや本日は、興趣ある酒宴であった!」

宴席の者たちは、いつしか杯を重ねて浮かれ騒いでいた。剣の舞も、荒武者の乱入も、思い返せば戦場での酒宴に似つかわしい余興であった。その間に必殺の攻防があったことなど、皆は気付かなかった。宴席は乱れ騒ぎ、項羽ですら今日は一杯ならず酒を咽に通していた。
「― 樊噲、、、樊噲!」
張良の横の席に座った樊噲に、沛公が声を掛けた。
沛公は、乱れた宴席に紛れて、立ち上がった。
(、、、ここを、出るぞ!)
彼は、顎をしゃくって退席する合図をした。
樊噲は、無言でうなずいた。
「樊噲!」
そのとき、正面の項羽が彼に声を掛けた。
「来るがよい、勇士よ!」
項羽は、上機嫌で彼を招き寄せた。
樊噲は、やむなく項羽の前にじり寄った。
項羽は、言った。
「― お前を、王にしてやろう。その代わり、俺の軍に来い!」
若い項羽は、初めて味わったほどの酒量を重ねて、酔眼となっていた。
項羽は、無邪気に笑いながら、この大男に申し出た。
大男は、笑みを返した。
そして、項羽に答えた。
「― お断り、します。」
そう言い残して、沛公のために席を立った。
項羽は、少し淋しそうな顔となった。
「勇士は、彼に取られてしまったか、、、」
そう言って、項羽は残った酒を飲み干した。
沛公は、厠(かわや)に向かうふりをして、外に出た。
樊噲と張良もまた、外にやって来た。
張良は、言った。
「亜父は、いまだに公を殺そうと企んでいます。今は、覇上に戻られよ。」
沛公は、二人に謝した。
「今日はまことに危なかった。いま俺が生きているのは、お主ら二人のおかげだよ。」
そう言って、彼は深く頭を下げた。
頭を下げた沛公に対して、張良と樊噲は拝礼した。
そのとき、後ろから三人に対して、声が掛かった。
「沛公。項王が、お呼びである。席に戻られよ―」
三人は、振り向いた。
そこにいたのは、項軍の陳平であった。
彼は、振り向いた者たちの顔を認めて、あわてて拝礼した。
「これは!、、、張申徒まで、ここにいらしたか。あなたの軍師ぶりは、まことにそれがしの敬慕するところでございます!」
陳平は、張良の姿を確かめて、深く尊敬の意を表した。博浪沙の事件以来、若い陳平にとって張良子房は、昔からの憧れの対象であった。彼は、伝説の男を目の前にして、感動を隠せなかった。
陳平は、ひとしきり心から拝礼した後で、しかしすぐに話を切り替えた。
「まだ、酒宴は続いております。沛公、項王の前に、お戻りになられよ。」
そう言って、沛公を引き留めようとした。
沛公は、まずい顔をした。
張良が、言った。
「沛公は、すでに酔い過ぎて礼儀にかなうことができぬ。ゆえに、礼を失せぬために、このまま退席申し上げる。項王には、それがしから言上いたしましょう。」
彼は、そう言って陳平の言葉を無視しようとした。
陳平は、拝礼していた顔を上げた。
彼は、沛公を見て、それから張良を見た。
彼は、言った。
「― 逃げられるので、あるな?」
そう言って、厳しい視線を向けた。
横から樊噲が、陳平に覆い被さるように近づいた。
ここで陳平の首をへし折ることなど、彼にとっては造作もないことであった。
陳平は、しかし殺気に押されることもなく、無言で両者を見つめた。
張良は、静かに陳平を見た。
沛公は、何も考えておらぬかのように、空虚な顔付きであった。
陳平は、声を漏らした。
「明日には、咸陽入城となりましょう。覇上の軍も、遅れを取らぬように―」
そう言い残して、彼は立ち去った。
沛公は、かすかにため息を付いた。
張良は、すかさず言った。
「扈従の者どもと共に、立ち去られよ、、、一刻も、早く。」
沛公は、うなずいた。
彼らは、今朝がた沛公に従ってここにやって来た車騎の元に、急いだ。
夏候嬰らが、歓喜して出迎えた。
「よくぞ、ご無事で、、、!」
彼らは、主君の帰還を泣かんばかりに喜んだ。本日は、皆が死ぬものと思っていた。項羽との生死を賭けた瞬間を、沛公は生き抜いたのであった。
沛公は、しかし喜ぶ間もなく、言った。
「とにかく、覇上に戻ろう、、、お前たちだけで、俺に付いて来い。」
そう言って、夏候嬰、樊噲、紀信、靳彊の四名を指名した。彼らと共に、間道を通って自軍に戻ることにした。
沛公は、立ち去る前に、樊噲と張良に言った。
「― 結局、俺は逃げるのだ。俺は、項羽に勝ったのでない。天下は、奴のものだ。」
そう言って、馬上の沛公は嘆息した。
樊噲は、言った。
「今の我らは、俎上の魚肉です。逃げるのは、致し方ありません。」
張良は、言った。
「今は、耐える時です。命さえあれば、世の転変は刻々と予測できぬものなのです、、、公よ、生き延びよ!」
そう言って張良は、急ぐ一行を見送った。
その頃、沛公のもとを去った陳平は、一人つぶやいた。
(項王、大魚を逸す、、、)
黙考して、それから答えを出した。
(生き延びた彼らの、勝ちだ。)
彼は、指をぱちん!と鳴らした。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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