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五 鴻門始末

(カテゴリ:死生の章

実に、鴻門の会は沛公劉邦の生涯で最大の危機であった。彼の生涯において、死ぬかもしれない瞬間は何度もあった。だが、鴻門の会での彼は、殺されるはずの運命であった。彼がここまで追い詰められた瞬間は、後にも先にもなかった。

張良の知、樊噲の勇、そして、劉邦の天運。
三人の力によって、ついに危機は乗り越えられた。
いっぽう項羽は、容易く殺せるはずの彼を、ついに許してしまった。項羽は、若かった。若いゆえに、老獪な范増に操られて沛公を斬る策略に、乗らなかった。彼にとっては、心のままに振舞ったまでのことであった。後の結果をいちいち心配する老婆心などは、覇王の気にするところではない。
宴席に戻ったのは、一人張良だけであった。
張良は、言上した。
「沛公は、杯杓に勝えず(はいしゃくにたえず。これ以上酒を飲めず)、辞する言葉を残すこともできませんでした。ゆえに、それがしを通じて謹んで礼物を献上するようにと、依頼いたしました。項王と亜父には、よろしくこれらの品をお納めくださいませ―」
そう言って、張良は白璧一対と、玉斗一対を献上した。
項羽は、張良に言った。
「― 沛公は、どこに行った、、、?」
張良は、答えた。
「すでに、自陣に戻っている頃かと、存じます。」
項羽は、目前に献上された白璧を取って、つまらなさそうに後ろに置いた。
亜父范増の前には、玉斗一対が献上されていた。
彼は、目を閉じて無言であった。
殺さなければ、ならなかった。
その大敵を、この若者は許してしまった。
(この老人の策は、彼に要らぬというのか、、、)
彼は、唇を噛んだ。
(若い気概のままに、突き進む。気に入らなければ殺し、心が喜べば許す。それでも、一時は勝つことができるだろう。だが、そのような浮かれた祭りは、決して長続きしない。戦って勝ち上がった覇者は、覇業を続かせなければならないのだ。続けることは、退屈だ。だが、王者は退屈に耐えなければ、ならないのに、、、)
彼は、田舎で七十年間も退屈に耐えて来た。退屈が素晴らしいことなどと、彼は微塵も思っていない。しかし、人の命とは燃える季節もあれば、川面の凪のように何もない日常が続くときもある。無風の日常が、結局は人生の大半を占めているのであった。長く生きていた范増は、それを知っていた。そして、天才の項王ですら、やがては火の勢いの止む季節が来ることも、予想できた。范増は、項王の政権が長続きするために、沛公を必ず殺さなければならないと、確信していた。それは、項王のためであった。若い彼にとっては差し出がましい策略かもしれないが、老いた亜父にとっては彼の栄光が続いて行くことを、願わずにはおられなかった。項王じしんは気にも留めぬことであったが、余生いくばくもない亜父はひとえに将来を懸念していたのであった。
范増は、自分の剣を握った。
目を見開いて、足元に置かれた献上品の玉斗を凝視した。
彼は、剣先を下に向けて、思い切り振り下ろした。
玉斗は、粉々に砕けた。
剣を地に突き刺して、范増はつぶやいた。
「孺子、與(とも)に謀るに足らず、、、、!」
剣を持った彼の手先は、かすかに震えていた。
だが、彼の無念のつぶやきを聞き取る者は、誰もいなかった。
張良は、聞こえない振りをするまでであった。

鴻門の一日は、終わった。
沛公は、覇上に戻るや否や、曹無傷を捕えて殺した。
項羽の勝利を確信して内通した彼は、悲劇を見た。
沛公は、ふてくされた顔で、寝所に進んだ。
足を洗う女たちが迎えたが、彼は振り払って奥に行ってしまった。
奥には、いつも通り戚氏が待っていた。
沛公は、彼女に何も声を掛けず、褥(しとね)にごろりと転がった。
「はあ、、、」
戚氏は、寝転んだ彼の横に、顔を近づけた。
「― 死ななかったのに、ご機嫌が悪いですね。」
彼女は、意地悪く言った。
「ふん、勝てなけりゃ、生きてもしようがない。」
彼はそう言って、女の衣を掴んだ。
少し力を入れただけで、するりと脱げた。素晴らしい、体の軽やかさであった。
戚氏は、笑った。
「昨日は、命だけでも拾いたいって、言ってたくせに。それが今日が終わったら、途端に欲深くなられて、、、ふふ。」
彼は、女を抱き寄せた。
「― もう、何も考えないことにする。考えたって、あの子には勝てない。俺の武器は、天運だけだよ。」
今後は、項羽の為すがままにさせることに、彼は決めた。
項羽が何をしようと望んでいるかなどは、彼は知らないし、興味もない。彼は、無になろうと思った。天才の項羽は、突っ走って多くの者を後ろに振り落としている。きっと今後、ただでは済まないであろう。その後、どのような世界が待っているか― それは、沛公の予測できることではなかった。
「生き残ったから、俺は少なくとも王になれるぞ。」
沛公は、戚氏の肌を激しく攻めていた。
彼女は、男のあり余る欲望を、一手に受け止めていた。今の沛公にとって、性欲が唯一の欲望のはけ口であった。
戚氏は、一仕事終えてから、荒い息で沛公に聞いた。
「、、、関中の、王?」
沛公は、答えた。
「わからん。残念だが。」
それから、彼女を向いて言った。
「― 皇后に、なりたいのか?」
彼女は、正直に答えた。
「― そりゃあ、そうよ。」
沛公は、言った。
「子がなければ、だめだな。」
戚氏は、言った。
「こうして幸してくだされば、すぐにできますわ。」
沛公は、子を産んだら、、、と言い掛けた。
しかし、心に引っ掛かって、言うのを止めた。
戚氏は、彼の様子を察して、つぶやいた。
「男は簡単にだますのに、女に対しては妙に裏切らないのね、、、あなたは。」
沛公は、しかし聞いていなかった。彼は戚氏の横で、すでに長い一日の眠りに付いていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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