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六 咸陽入城(1)

(カテゴリ:死生の章

翌日、項羽は咸陽に向けて総軍を進める命を出した。

項羽の率いる四十万の将兵に、覇上からの十万が加わり、その行軍は長大なものとなった。後続に配置された沛公軍などからは、先頭が今いったいどの辺りにあるのか、目で眺めても音を聞いても全く分からなかった。
その先頭には、常の通りに常ならぬ将がいた。
愛馬の騅にうち跨り、帯びた甲(よろい)を陽光に輝かせて、軍団の最も前を進むのは項王であった。その姿は、沿道の秦の諸民にすら、異常な印象を与えた。
(奥に隠れて方士のまねごとをする皇帝など、我にとっては唾棄すべき臆病―)
彼は、自分の姿を積極的に人々に見せ付けた。この私から、世界の全ては流れ出るのだ。私は、逃げも隠れもしない。挑みかかりたければ、挑んでくるがよい。項王は、世界の全てに対して、彼の一個の肉体をもって闘うことを望んだ。
咸陽城の、郊外に差し掛かった。
「こんな遠くの城外にまで、無数の人家が溢れ出している。何という、巨大な都であろうか、、、」
彭城などとは比較にならない、大人口であった。
項羽は、初めて知る秦の本拠地の富強さに感嘆した。
そのとき。
かすかに、風の音が鳴った。
項羽は、ゆらりと避けた。
飛んで来たのは、矢であった。矢は項羽の目の前を斜めに通り過ぎて、彼の脇に従う騎兵の一人に向けて飛んで行った。騎兵は脳天を貫かれ、声も立てずにゆらめいて、馬から落ちた。
項羽は、矢の飛んで来た方角を見た。
豪家の望楼が、咸陽に続く幅広い馳道の脇に、高く聳(そび)えてあった。
「― あそこか。」
項羽は、自分の弓を取った。
弓を引き絞り、狙いを定めた。目では何も見えないが、彼には標的がどこに隠れているのかがはっきりと分かった。
彼は、しゃっと弓を放った。
矢は、望楼へ向けて正確に飛んで行った。その結果はこちらから見ることができないが、中では確かに暗殺者が一矢で絶命していた。
項羽は、扈従する者どもに、言った。
「この道から向うの地区を、全て破壊せよ。何一つ、後に残すな。狗(いぬ)一匹残さず、絶やし尽くせ。」
命じられた者どもは、凍り付いた。
だが、項羽は命を繰り返すこともなく、郊外を通り過ぎて行った。

項羽が咸陽城を見たのは、暁の時刻であった。
時は、冬も終わりに近い旧暦十二月の頃であったが、まだ夜が明けるのは遅い。項羽は軍を率いて、星の見える中を渭水の南岸に沿って上って行った。
「あの影が― 阿房宮か。」
項羽の前に、高々と積み上げられた巨大な基段があった。土を固めた土台の広がりは、どこまでも続いて行くかのように見えた。
その基礎の上に、荘厳な宮殿楼閣の影が、群れ集まると形容すべきほどに立ち並んでいた。
驚くべき、大きさであった。天下の刑徒七十万を死ぬまで働かせて作った、秦帝国の富と暴力の結晶。それが、項羽の前に広がる阿房宮であった。
阿房宮の、宮門の前に至った。
秦の官吏が、恐れながら平伏して迎えていた。
先にやって来た沛公は、秦の官吏にとって話のできる占領者であった。だが彼らは、沛公が敗れて項羽に屈服したことを知って、希望を失った。項羽は、沛公と違って容赦のない征服者であった。項羽は強大すぎて、抵抗することもできなかった。秦人は、もはや何も言うことができず、顔を上げることもできなかった。
項羽は、騅から降りることもなく、乗馬のままで門を通った。
「始皇帝、、、お前は、何を夢見たのか?」
項羽は、付き従う騎士たちと共に、阿房宮の中を進んで行った。彼は、始皇帝の着手したあまりにも大きな建築を進みながら、天下を統一した男の心の内を推し量ろうとした。
驚くほどの、規模であった。彭城で最も大きな建築物と言えば県庁の庁舎であったが、この阿房宮では県庁程度では最も小さな宮殿でしかなかった。工匠たちが考えられる技術の粋を尽して、前代未聞の高層で広大な宮殿楼閣をあちらにもこちらにも建設していた。だが、この宮殿が使われたことは、秦の滅亡までほとんどなかった。この宮殿は、結局完成しなかった。咸陽の栄光を倍に広げるはずであった新都心は、帝国の滅亡後は誰も住むことがなく、全くの空虚な世界であった。
「天下の力を、全て集めたかったのか。一人の手に億兆の民を握り、思いのままに動かせば、どこまでのことができるか。お前は、死ぬ前にはるか彼方の会稽にまでやって来たな。今は亡き叔父上と私は、お前の影に怯え、かつ怒った。それほどお前は、強大であった。強大な者は、強大な力を残さず振るわずには、おられなかったか、、、あれが、噂に聞く前殿か!」
項羽は、ひときわ高く積み上げられた基段の上に、最も大きな宮殿の姿を見た。
一万人の官吏を座らせることができる、阿房宮の要とも言える前殿であった。
項羽は、騅を走らせた。
銀白の馬は、喜び勇んで宮殿に駆け上がって行った。
近づけば近づくほどに、その雄大さが項羽の身に沁みた。
「何という、大きさだ、、、彭城の全ての建物を併せても、敵わぬ!」
項羽と馬は、迷路のような宮殿を抜けて、最も高い望楼に入った。
項羽は、馬ごと望楼の段を駆け上っていった。
彼が最上段に至ると、ちょうど朝の陽が東天に昇り始めた頃であった。
項羽は、明け染める咸陽城の全貌を、眼下に見下ろした。
宮殿に次ぐ、宮殿。
全国の豪族富家を移住させた、豪壮な屋敷の群れ。
無数を越える無数の、人家の波。
渭水の対岸にある咸陽宮の瓦当が、朝日で真っ赤に染まっていた。
人間の作った集落の極致が、項羽の下に延々と広がっていた。
「― すばらしい!」
項羽は、始皇帝の心が分かったような、気持ちがした。
「天下の力は、これほどまでに湧き上がるようであるのか。その天下を握る君主は、無限の力を持つというわけであるか。この咸陽の壮観は、始皇帝の見果てぬ夢の、写し身であることよ、、、」
項羽の顔は、朝日に照らされて晴れ晴れとしていた。
項羽は、心から賞賛した。
「咸陽は、かくも美しい、、、」
その後、彼は自らのなすべき抱負を、言葉にした。
「― 亡ぼさねば、ならぬ。」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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