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六 咸陽入城(2)

(カテゴリ:死生の章

項羽は、今や全てを無に戻して、無から天下を書き直したいと望んだ。

項羽が阿房宮に登って始皇帝の壮挙を一望したとき、彼は始皇帝を始めて賞賛した。
(始皇帝は、真に英雄であった。彼の魂は、人間の世界を突き破ろうとした。まさしく彼は、私の友ではないか、、、)
項羽は、始皇帝のために涙に濡れた。彼は、始皇帝を自分の友人として、認めた。
(だが、始皇帝よ― 私は、お前を越えよう。私は、お前を越えるために、お前の為したことを全て亡ぼしてしまいたい、、、)
項羽は、始皇帝を称えると共に、彼の遺した壮麗な都に嫉妬した。項羽は、自分も始皇帝に続く巨大な力と気概を持った者として、この都を受け継ぐことができないと思った。英雄は、自分の力で全てを描かなければならない。彼は、昇る太陽に向けて、彼の破壊と建設を誓った。
望楼の下では、扈従の騎士や兵卒たちが待機していた。
頂上の階から、長く美しい馬声が聞こえて来た。騅の声であった。
下の者たちがあっと驚いたかと思うと、楼の欄干より、人馬が勢い良く飛び出した。
「― 項王!」
人々は、その後の言葉も続けられなかった。項羽は馬を操り、望楼の庇を伝って旋回しながら駆け下りて来た。項王の高らかな歓声が、響き渡った。騅の銀白の毛色は、朝陽に光ってまるで透明であった。人馬が回りながら駆け下りるに連れて、光が降り注いで行くかのようであった。
「この世の、、、業であろうか!」
声を失ったのは、呂馬童であった。
彼に従っていた騎士の中には、いつも通りに呂馬童も加わっていた。呂馬童は、新安の虐殺以来、次第に項王に付いて行くことの難しさを感じていた。彼は、項王の偉大さを知れば知るほどに、彼が人間の世界を踏み越えて進んで行く姿を、次第に恐れるようになった。呂馬童は、覇王に従いながらも、心の中で悩み始めていた。だが、その呂馬童もまた、今朝の項王の勇姿には、神を見る思いを禁じえなかった。
騅は、望楼の高みから狂喜するように駆け下り、やがて空に跳んだ。
「跳んだ、、、!」
人馬が一体となって、空に弧を描いた。項王の甲(よろい)と騅の体毛が、光の中で無数の色を反射した。そのとき下の者たちは、天馬に乗る神人を見た。
信じ難い跳躍を見せて、騅は着地した。
項羽は、満足そうに馬の首を愛でた。
彼は、者どもに近づいて行き、そして命じた。
「全軍に、伝えるがよい―」
彼は、爽やかな笑顔を見せて、言葉を続けた。
「今日より三日三晩、一切の軍規を停止する。咸陽において敗者への殺、傷、盗が罰せられることは、無い。思うさまに、やらせるがよい。三日三番の後、咸陽城は全て焼き払われるべし―」
命じられた者どもは、覇王の恐るべき破壊の命令に、脳中が真っ白になった。

その日のうちに、咸陽城の広場に子嬰が引き出されて来た。
秦王子嬰は、いったんは沛公によって助命されていた。だが、項羽軍が入場すると共に、捕えられて死を与えられることとなった。
引きずり出された子嬰は、すでに鼻をそがれて足首を斬られていた。顔には、黥が施されていた。五刑をことごとく受けて、最後に斬られるのであった。
将兵が、処刑される広場を埋め尽くしていた。
すでに、項王から信じ難い命令が各人に伝えられていた。
これから始まるであろう狂気の時間の前触れとして、子嬰は屠られようとしていた。
「― 斬!」
腰斬の鉞(まさかり)が、重さに耐えかねるように振り落ろされた。巨大な鉞が、地響きを立てて地に着いた。
秦王の血を見た群集から、悲鳴のような歓声が沸き起こった。
ここに、秦王朝の血統は絶えた。
躁になった将兵どもは、大挙して咸陽の街区に飛び込んで行った。
秦の王は、亡んだ。
これより、秦の都が亡ぼされる。
かつて大宰相の商鞅が計画し、以来大秦帝国の首都として拡張に拡張を続けて来た大都会であった。始皇帝の時代に六国の宮殿を移し、全国二十万の富戸豪豪がここに移住させられた。天下の最上にして最大の富が、この首都に集まっていると言っても過言ではなかった。その大首都が、これより全てを奪われて亡ぼされる。
各国の軍は、てんでばらばらに城の内外に陣営を敷いて、掠奪の本部を作った。
「どうせ、諸国から盗んだ富だ― 奪えるだけ、奪い返せ!それが、正義だ!」
各国の将は、配下を叱咤した。秦への復讐が、大義となって広まっていた。復讐の破壊を大義と正当化したとき、人間の集団は恐るべき残虐を始めることとなった。
四十万の暴徒は、咸陽城の至る所に侵入し、さらに城外にまで溢れて行った。
その日のうちに、近郊の宮殿の一つに火の手が上がった。
消し止める者は、誰もいない。さらに別の宮殿からも、火が湧き起った。
二百七十を数える、豪奢な宮殿望楼。
随所に張り巡らされた、皇帝の専用街路である復道。
六国から山と集められた、宝玉錦繍の数々。
全て奪われ、毀(こぼ)たれて行った。
そして、死、死、死、死、死。
早くも一日目で、死者が咸陽の街路に折り重なった。
将兵どもは、いったん死に慣れれば戦場と同じ気分となった。
始めは抵抗する際に斬り付け、やがて宝物を差し出させるために斬って脅し、次第に勇躍して殺そのものを楽しむようになった。
「どうして、、、どうして、、、」
妻子を奪われて置かされた富家の家長が、片腕を切り落とされながら街路をふらふらと歩いていた。彼の家は獣と化した兵卒どもに襲われ、あっと言う間に犯されて奪われた。
「どうして、、、このようなことに。何が、悪かったのか、、、」
うめいた声は、そこまでであった。
彼は、兵卒に背後から突き刺された。
彼は、善良な民であった。だが、彼の乗っていた秦帝国が、怨まれていた。男の一家は、人間の集団の罪の犠牲となって、苦しみながら死んだ。だが彼の一家の死などは、全体の破壊から見れば取るに足らない出来事として、速やかに忘れ去られて行った。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章