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七 悪・夢・現実(1)

(カテゴリ:死生の章

咸陽の破壊は、翌日も続いていた。

夜明けに一旦止んだかと思われた怒号と悲鳴は、朝が明けると共にさらに大きな音となって空気をどよもした。二日目となり、後続の諸侯軍どもが到達したのであった。新手の略奪者が、破壊の饗宴に新たな活気を注入した。
大帝国の首都を、一物も残さず奪い尽くし、破壊する。
これほどの快楽が、この世にあるだろうか?
二日目となり、三日目となっても、怒号と悲鳴は止むことがなかった。壮麗であった咸陽城は、すでに屍の山と廃墟の甍が延々と続く死の都に、装いを新たにしていた。
咸陽宮から見れば、偉大なる都が急速に変化していく姿を、一望することができた。
またとなき、壮観であった。
人は殺され、宝物は奪われ、畜獸は食われ、宮殿の柱の装飾まで残さず剥ぎ取られていた。
役所の車馬は、掠奪品を載せるために全て持ち去られた。そして役所の文書は、何の価値もないので棄てられた。
項羽は、咸陽宮の広大な玉座の間の真ん中で、寝転がっていた。
横には、愛馬の騅が付き従っていた。
彼は、素裸であった。
彼は、昨日配下の兵卒が宮殿の妻妾を襲う姿に、出くわした。
不思議なことに、恐怖と苦痛の只中にいるはずであるのに、男も女もけたたましく笑っていた。恐怖の感情とは、結局どこかに逃れられる希望を心に持っているからこそ、耐えられない現実を嫌悪して起る感情なのであろう。今や、宮殿の女たちには、全くの希望がない。もう、現実を変える望みは絶たれたのであった。そのとき、人は笑い始めるのであろうか。襲う男の顔も、襲われる女の顔も、人間がこのような表情ができるとはまるで予想もつかなかった。
彼らの姿を見て、項羽は面白いものを見るように、笑いがこみ上げて来た。
「これが、人の性であるか、、、!」
彼の笑い声を聞いた兵卒どもが、狂喜の声で項羽を誘った。
― 大王!、、、大王も、共に!
項羽は、哄笑した。
彼は、喜んで兵卒と共に襲撃の遊びに飛び込んでいった。
そのような一幕があったのであるが、項羽はすぐに飽きてしまった。
今日の彼は、宮殿の上から破壊の光景を眺めて飽きなかった。
横では、騅が静かに秣(まぐさ)を食んでいた。
彼は、小さな銅の香具を取り出して、ほのかに香を嗅いだ。
「彼らの罪は、何だったのだろうか―」
項羽は、人ごとのように独語した。
「勝ったことか。勝ち過ぎた、ことであるか。それに、尽きる。」
勝った者の裏には、負けた者がある。
負けた者は、怨念を残す。
― 誰かが、統一しなければならなかったのだ。
― 秦人は、勤勉で優秀ゆえに勝ったのだ。
― 六国の無道な暴政よりも、秦の法の政治の方が進歩的なのだ。
どんなに勝った者が屁理屈をこねて自分の勝ちを正当化したところで、負けた者の怨念は消えない。いやますます募る。
勝てる者があまりに大きく長く勝ちすぎたということは、その裏にあまりに大きく、あまりに長く負け過ぎた者がいるということである。
その怨念は、晴らされなければならない。
今、咸陽の都で秦の下で勝って幸福を得てきた者たちは、負けた者たちの怨念の爆発の前に、死と恥辱の懲罰に合っている。
これでよいのだ。秦から寄せた波が、打ち返されただけのこと。波が和ぐまで、続けさせるがよい。
幸福な家族の夫は、寸刻みに殺されている。
その婦人と娘たちは、最も下劣な兵たちの獣欲に任されている。
「悲鳴が、挙がる―」
宮殿の下から、女の金切り声が聞こえて来た。
素晴らしい錦繍を纏って、しかしその形相は恐怖で無残に崩れていた。
女を追うのは、十人余の兵卒ども。
項羽の目の前を、女の次に兵卒どもが、通り過ぎた。その運命は、すでに決まっている。
項羽は、ふとこのような諺言を思い出した。
「人生一生の閒(あいだ)は、白駒が隙(すきま)を過(よ)ぎるが如し―」
項羽は、微笑んだ。
また向うで、別の女の悲鳴が上がり、やがて消えた。
あちらでも、こちらでも、人間が狂っていた。
幼児を捕えて傷つけることに、熱中している兵卒がいた。
無垢な子供を不具にして、取り返しの付かない傷を負わせる。幼児の耳を削ぎ、腕を切り取って回っているあの兵卒は、神と人への反逆とも言える己の破壊に、まるで崇高な喜びを見出したかのようであった。
別の街路では、二人の兵卒が遊んでいた。
子供を弄ぶと、どうして放り投げたくなるのだろう。
二人の兵卒が向かい合って、一人が笑って子供を投げた。
もう一人は、戈を構えている。
ぐさりと、突き刺さった。
項羽は、これらの光景を余さず眺めていた。
やがて香の匂いが立ち込め、血と肉の凄惨な臭気を追い払っていった。
「おお、、、腰鼓を持て。」
項羽は、従卒に命じた。
この光景を見て、彼は少し舞いたくなった。
直ちに、大きな腰鼓が持って来られた。
項羽は、素裸のままで鼓を腰に結わえ、立ち上がった。
「待ち遠しいのは、春の川面よ、、、」
彼は、鼓を打って、歌い始めた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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