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七 悪・夢・現実(2)

(カテゴリ:死生の章
溱與洧     溱水(しんすい)、洧水(いすい)
方渙渙兮    川面に水、あふれ
士與女     士(おのこ)と女
方秉蕑兮    蕑(かん。ふじばかま)を摘まん
女曰觀乎    女は問う、「もう行きましたか?」
士曰既且    士は答える、「もう、行きましたよ。」
且往觀乎    それじゃあ、もう一度川辺に行こうよ
洧之外     洧水の川辺は
洵訏且樂    春草萌え、まことに楽し
維士與女    士と女
伊其相謔    二人で、痴話など交わす
贈之以刁藥   贈る草は、芍薬(しゃくやく)にしよう

項羽は、腰鼓を打ち打ち、舞って歌った。
歌は、『詩経』の一篇であった。春の喜びに溢れ、軽やかでかつ楽しい。儒者どもは、男女の間に隔てを設けて、男女の別だの家庭の秩序だのと小賢しく説教する。睦み合う喜びを隠して見ないふりをしようとする、暗い顔をした真面目者たちであった。しかしこの歌の心は、そのような奴らの策略など、嘲笑ってやり過してしまう。この世界を重く押さえ付ける者は、去ってしまえ。項羽が作る世界には、そのような奴らの居場所はない。項羽は、破壊の渦巻く咸陽城の中心で、舞い歌った。
「― この私の心から、全てを作るのだ!」
彼は、心をさらに励まそうと、鼓を打った。
項羽は、何一つ身に着けぬ肉体で、咸陽宮に踏み舞っていた。鼓の響きが調子を刻み、時に外から悲鳴が聞こえて来た。遠くで、また略奪者の狂声が起こった。項羽が舞っていく最中に、古い世界は崩れ去っていくかのようであった。騅は、主人をじっと眺めていた。興味があるのかないのかも、よく分からなかった。途中で一声だけ、低くいなないた。主人の舞踊に対する彼の唱和は、それだけであった。
項羽は、歌を続けた。

溱與洧     溱水(しんすい)、洧水(いすい)
瀏其清矣    溌剌として、清し
士與女     士(おのこ)と女
殷其盈矣    皆が連れ添って盈(み)ち溢れる
女曰觀乎    女は問う、「もう行きましたか?」
士曰既且    士は答える、「もう、行きましたよ。」
且往觀乎    それじゃあ、もう一度川辺に行こうよ
洧之外     洧水の川辺は
洵訏且樂    春草萌え、まことに楽し
維士與女    士と女
伊其將謔    互いに、痴話など交わす
贈之以刁藥   贈る草は、芍薬(しゃくやく)にしよう

「虞美人、、、戻りたいなあ、、、」
項羽は、歌いながら、彼女のことを思った。
「始めるならば、彼女と共に― きっと!」
覇王となった彼の望みは、それしかなかった。彼は、虞美人への郷愁に駆られた。彼は、舞い踊ることを止めた。彼のいる咸陽宮には、いつしか誰もいなくなっていた。
ちょうど同じ頃、宮殿の外。
咸陽の官舎に、蕭何の姿があった。
彼は、樊噲に兵卒を率いさせて、官舎の一角を封鎖させた。今日が最後と略奪者の狂乱は最高潮に達していたが、樊噲は侵入しようとする者を全て跳ね返していた。
蕭何は、項羽の命令が伝えられるや否や、直ちに咸陽城に急行した。
このままでは、秦帝国の最大の財宝が、空しいものとなってしまう。彼は、憂いに満ちて道を急いだ。
だが、蕭何にとっての秦帝国の財宝とは、黄金でも璧玉でもなかった。
蕭何は、官舎に着くや否や、同行して来た張蒼に問うた。
「もう、時間がない。明日には、咸陽城は灰となってしまう。張氏、君はもと秦の御史であったな。君に問う―」
彼は、目の前に広がる地区を指差した。
そこは、書庫であった。秦帝国の残した一切の行政文書が、並べられた庫に納められていた。庫は、数百列にも及んでいた。
蕭何は、言った。
「― この文書の中で、今後の政治のために最も重要なものは?、、、答えよ!」
張蒼は、しばし考えた。
そして、答えた。
「― 土地台帳です。」
蕭何は、彼の答えに、直ちに深く得心した。
「― まさしく!租税と兵役こそは、政治の根幹!」
秦帝国が、郡県の官吏を動員して綿密に整理した努力の結晶が、全土の土地と人戸の記録であった。これが失われれば、国家はもはや運営できなくなる。しょせん、国家とは人民から搾取する組織であった。だが、実態の記録に従って整然と搾取することによって、人民の負担は最小限のものとなる。その記録がなくなり、権力者が勝手な略奪を始めたときに、暴政への道は開かれるのであった。
蕭何は、台帳の保管された地区を、張蒼に聞いた。
それだけで、膨大な数であった。
蕭何は、配下の者たちを動員して、直ちに庫から文書を運び出させた。
彼は、指揮しながら張蒼に言った。
「今日の一日で救い出せるものは、おそらくこれだけであろう― 後の文書は、棄てざるをえない。」
張蒼は、言った。
「秦の律令や詔ならば、各地の県庁にも写しがあります。秦の官吏たちが作成した膨大な上書や内部文書などは、王朝が倒れた以上は棄て去っても構わないでしょう。しかし、六国から押収した各国の歴史書と、人民から没収した数多の思想文芸の諸書は、全て失われてしまいます。」
蕭何は、張蒼に言った。
「それらは、過去のものだ。だが政治は、明日に必要なものだ― 文書を残して、人を殺すわけにはいかない。」
張蒼は、彼の見識に深く感銘を受けて、拝礼した。
「あなたこそは、天下最高の官吏でございます。」
しかし、感激している暇はなかった。最後の破壊が、明日の夜明けと共に近づいていた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章