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八 分かたれた天下(1)

(カテゴリ:死生の章

咸陽城に、火が点けられた。

火は乾いた空気に助けられて、四周にたちまち拡がっていった。
十二月、秦王は殺され、秦都は灰となった。この月を以って、秦の歴史は終わる。
翌月よりは、新時代であった。だが、ここから後の歴史を述べる際には、暦を注意する必要がある。この月から実際に始まった楚帝国の暦と、秦の採用していた暦すなわち瑞頊暦(せんぎょくれき)とは、月の数え方に相異があるからである(以下の叙述では、平セ隆郎氏『史記二二〇〇年の虚実』の主張を参考にしました)。
楚の暦では、冬の始まりを一月として数え、これを正月とする。旧暦でいう十月が、楚の暦では一月として数え始める。
いっぽう瑞頊暦(せんぎょくれき)では、春の始まりを一月として数える。現代中国で祝われている旧正月と、原則同じ暦である。じつは秦の暦を継承した後の漢帝国の制度が後世の前例となったために、現在でも旧正月は梅の花がほころぶ「新春」なのである。
ゆえに、秦王が誅され、咸陽が屠られた翌月は、楚の暦で言えば「楚義帝四月」となり、もし秦が続いていたと仮定すれば、「秦王正月(一月)」となるであろう。
この時点で秦に取って代わったのは、楚帝国であった。だから以降の歴史は楚帝国の暦を用いて書くのが、権力の実態に即していることになるだろう。しかし、『史記』の叙述は秦を結局受け継いだ漢帝国の暦を用いて、この月を「漢元年正月(一月)」としている。だがこの時点では、いまだ漢は天下の主ではない。それゆえ、権力の実態から見ればこれを用いるべきでないのであるが、前年との暦がちょうど連続して都合が良いために、この物語では以降について秦漢が用いた瑞頊暦に従って書きつづっていくことにしたい。ゆえに、秦王が誅され、咸陽が屠られた翌月は、(漢元年の)正月として数え始める。つまり、司馬遷の歴史観に従うこととする。だが繰り返す通り、権力の実態は全く異なったものであった。
この月、全軍は徹底的に破壊された咸陽を棄てて、関中の東に移っていた。
復讐は、夥しい量の血と涙を敵に搾り出させて、終わった。
これから後は、新しい体制を作らなければならない。
すでに、楚の懐王は「義帝」と称していた。この関中のはるか後方にいる楚王の末裔が、名目上は天下の主であった。しかし、義帝の威光など、関中にいた諸侯の誰一人として尊重するものではない。真の天下の主は、疾うから決まっていた。偉大なる覇王、項羽以外に恐れる大王などはいなかった。だが彼は、ようやく二十半ばを過ぎただけの、若すぎる覇王であった。
「― 項王は、いったいどのような仕置を、天下になされるのか?」
諸侯の注目は、彼の心中に集まらずにはおられなかった。
戲(き)に置かれた陣営で、項王は側近に諸侯の封建について、意見を具申させていた。
「― 陳餘?、、、誰だ、それは。ここにおらぬ輩などに、封地を与えることができるか!」
項王は、陳餘を王に封ずるべきであるという意見を聞いて、吐き捨てるように却下した。
陳餘は趙の大将軍であったが、まずい戦をして趙王と張耳を窮地に陥れた。項王の救援が成功した後に、彼は張耳と仲違いして趙から逃げ去った。しかしその後に章邯を降伏に誘う際に一策略を行って、秦の滅亡に貢献したことは確かである。陳餘は、その功績ゆえに王に封建されることを当然だと思っていた。しかし、項王は戦いもせずに逃げて独りうそぶくこの偽君子を、全く評価していなかった。
具申したのは、陳平であった。彼は、功により爵卿(しゃくけい)に上げられていた。陳平は、項王の断を聴いて、もっとももっともと肯いた。
「まさに、大王のお言葉通りにございます。陳餘の王位は、取り消すことにいたしましょう。南皮あたりの三県ぐらい、奴に与えて置けばそれで充分でしょう、、、!」
陳平は、直ちに案を訂正した。陳餘は、爪の先ほどの小領主に転落した。いっぽう彼のもとの盟友であった張耳は、勇戦して項王と共に関中に入った功を評されて、常山王に上げられることとなった。
次に、斉王国への諸侯の配置が議題となった。
項王は、言った。
「斉王の土地は、三分の一に削れ。田都、田安の両将を、斉地の王として立てよ。」
項羽は、斉の宰相田栄のことを許さなかった。懲罰として、斉王は膠東だけに領地を削られることとなった。代わりに楚軍に従った田都将軍が、斉王として立てられた。また楚に呼応して済水の北で蜂起した田安は、その功により済北王に立てられた。斉は、三分割されることに決められた。
この頃、項王の陣営には全土の諸将豪傑どもからの懇願が、殺到していた。いずれも、討秦に巨大な功績を為したことを、これでもかと言うほど過剰に主張していた。陳平らの手元には、ありとあらゆる欲望が集まり、絡み合っていた。彼らの欲望を全て聴けば、中国の土地が何倍も必要であった。陳平らは相打つ利害をあれこれ酌量しながら、苦心して一応の案を立てて、項王の裁決を仰いだ。しかし、項王の断は明快であった。明快すぎて、非常に多くの疎漏を残しているように思われた。
封建の過程で、盗賊の彭越もまた無視された。彼はすでに若干の勢力を貯える軍閥であったが、項王は盗賊など歯牙にも掛けなかった。
封建された王は、以下のごとくであった。
魏王豹は、西魏王。平陽に都す。
申陽は、河南王。洛陽に都す。
韓王成― 張良の奉じた王である― は、韓王。陽翟(ようてき)に都す。
司馬卬は、殷王。河内の地を与えて、朝歌に都す。
趙王歇は、移して代王。
その右丞相の張耳は、前述のとおり常山王として旧趙の地を与えられた。襄国に都す。
当陽君黥布は、九江王。当然の、恩賞であった。都は、彼の郷里の六(りく)。
番君呉芮は、衡山王。邾(ちゅ)に都す。
柱国の共敖は、臨江王。江陵に都す。
燕王韓広は、移して遼東王。
燕将臧荼は、項王と共に関中に入った功により、代わって燕王。薊に都す。
田市は、膠東王に落とす。
田都を、斉王とする。
田安を、済北王とする、、、
結局は、項王と共に戦った者が上げられ、項王から遠い者が落とされた。諸国の王は、功臣のために領地を削られ、都を逐われる破目に陥った。
「さて、この関中の土地でありますが―」
陳平は、最後の議題に移った。最後にしたのは、楚帝国にとってこれこそが最も重要なはずの決定だからであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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