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十一 智者動く(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

そのとき、韓信が立って一喝した。

「― 貴様、秦の間諜か!」
陳平は、ぴしゃりと大喝で答えた。
「間諜では、ない!」
陳平の声は、陣営に鋭く響き渡った。
全員が、沈黙して再び彼に注目した。確かに、ただ者ではない説得術であった。
陳平は、すぐ静かな口調に戻って、言葉を続けた。
「― 臣は、もと魏王に仕えておりました。しかし心なき讒言に会い、やむなく魏王のもとを去りました。以来この辺で草莽の内に身を置き、討秦の将が現れるのを待っておりました。今、速やかに渡河して趙を救わなければ、討秦の業は空しいものとなりましょう。それゆえ、回天の兵を起こした項将軍のお力となるために、この臣は動いた次第なのです。どうか、臣のことを信じてくださいませ。」
そう言って、項羽に深く平伏した。
項羽は、言った。
「お前の言が嘘かまことかなどは、すぐにも分かることであろう。今は、お前の策をありがたく受け取ろうではないか。もとより、我らに不利なこの戦。だが敵の虚を突くことができればできるほど、我らは勝利に近づくことができるだろう。総軍、進撃するぞ!、、、進んで、河を渡る!」
陳平は、平伏しながら項羽に感謝した。
「ありがたや!、、、やはり、項将軍は天下にただ一人、秦を討つことができる将でございます。この臣の見立てに、狂いはありませんでした!―」
謎の智者、陳平が、こうして項羽の前に現れた。

「もう、私はついて行けない。あんな男の言を信じて、直ちに渡河するだと?、、、」
進撃の命令が出て、軍中はいよいよ趙に向かう準備で皆が走り回っていた。
項伯は、携帯する兵糧の手配をしている韓信のところに来て、不満と不安を語った。
韓信は、大釜で芋を茹でる作業の監督をしていた。
卿子冠軍の兵卒の常食は、芋と菽(まめ)であった。
中国には、古来から「芋」があった。
「芋」という字の本来の意味は、サトイモのことである。イモは地面から掘って茹でるだけで食べることのできる、便利な食品であった。西洋では、じつに新大陸からジャガイモとサツマイモが導入されるまでイモという食品が存在しなかった。それと比べると、イモを知っていた中国やその周辺諸国は、じつに簡便な炭水化物の摂取法に恵まれていたといえるだろう。だが中国では、サトイモは日常の食事としては、麦や米の周辺に位置付けられているにすぎない。中国の東にある日本と、事情を同じくしている。しかしサトイモの仲間のタロイモは、現在でもアジア各地で主食の役割を担っているのである。
この芋を塩で茹でて、搗(つ)いて、固める。
これと干し菽(まめ)あたりが、兵卒のための簡便な携帯食であったろう。
韓信は、茹でた芋を取り出して、ぬめりを取るために水で洗う作業をしていた。
韓信は、手を休めることもなく、項伯に言った。
「左尹は、彼のことを昔から知っているのですよね、、、?」
項伯は、言った。
「もちろん。あの甥がほんの子供の頃から、項氏は各地を転々としていた。」
韓信は、言った。
「それで、彼に全てを賭けることが、できないでいるのでしょう。昔の姿に、引きずられて―」
項伯は、答えに詰まった。
言葉を詰まらせた項伯に代わって、韓信が続けた。
「確かに、危険な賭けばかりです。だが戦の勝敗とは、畢竟天運のあるなしであるのかも、しれません。兵法は不敗の道を教えますが、勝つためにはそれ以上の何かが必要です。あなたの甥は、この一戦に賭ける意志を持っています。それが、今の楚軍が勝ち進むために何よりも必要なものなのです。彼だけが、楚軍の中で天運に賭ける資格を持っているのです。勝利の帰趨の何割かは、彼の天運のなさしめるところでありましょう。いや、ほとんど全てが天運であるのかもしれません。ですが、項羽だけです。あなたの、甥だけです。秦を討つことが、できるかもしれないのは―」
韓信は、洗い終わった芋の水を切って、調理担当の兵卒に渡した。
渡すついでに、手に数個くすねておいた。
韓信は、その一個を項伯に渡した。
「長い間、兵卒はこれと菽ばかり食べています。それでも、こうして勇躍動いています。あなたの甥は、兵卒から信頼されているのですよ―」
項伯は、韓信や項羽よりもずっと年長であった。彼が初めて韓信と出合った時には、この青年は将来有望には見えたが、まだ掴みどころのないのらくら者に過ぎなかった。それが、この韓信も甥の項羽も、彼の先入主からいつの間にか飛び出していた。気付いていなかったのは、年長の彼ばかりであった。
韓信は、項伯に言った。
「左尹。我々は、彼の下で最善を尽すのみではありませんか。」
そう言って、立ち上がって兵卒のところに向って行った。
項伯は、韓信から渡された芋を、苦い顔をして頬張った。

卿子冠軍は、ついに河水(黄河)を渡った。
陳平の言葉に、偽りはなかった。
大きな津(しん)を避けて、地元の者しか知らない渡し場に、大数の船が用意されていた。しかもその地点は、目指す鉅鹿までの最短の経路であった。
「直ちに、趙へ渡れ!」
項羽は、命じた。
「罠であれば、全滅か、全滅か、、、」
項伯は、次々に渡河していく軍を見ながら、もはや祈る以外何もできなかった。
この河は、広すぎて対岸すら見ることができない。
対岸に秦軍が待ち構えていれば、それで万事窮すであった。
しかし、すでに乗船していた韓信は、これまで彼が掴んでいた肯定的な情報を信じた。
「すでに渡っている当陽君と蒲将軍の部隊からも、秦にこちらの動きが悟られていないようだと伝えられている。この渡河は、おそらく成功するだろう。」
楚軍には、斉での蜂起の報もまた伝わっていた。これも、陳平の言のとおりであった。
田都将軍の離反に引き続いて、田安が済水の北で蜂起して、斉兵をごっそり奪った。斉は、分裂した。もはや楚の隙を狙うことはできず、逆に秦楚の決戦から一国だけ取り残されてしまった。
宰相田栄以下の斉の首脳たちは、事態のあまりの急変に臨湽の都で目を白黒させていた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章