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十二 退路は要らぬ(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

大軍の、渡河であった。

兵卒が河水(黄河)を次々に渡っていく姿は、文字通り蟻の集まるごとくであった。
船を繁く往来させて、ようやく戦う将兵たちが渡り終えた。
乗船を手配した陳平の手際は、見事であった。
だが、まだ全軍が渡り終えたわけではなかった。
軍には、糧秣・輜重の部隊が付き従っていた。それらは、いまだ対岸にあった。もしこれらを渡河させようとするならば、項伯が見積もった通りあと一月も掛かるかもしれなかった。軍に用いる馬と車を渡すだけでも、大変な作業であった。その上に、食がある。兵卒が食む分に、馬どもに食わせる分。行軍に伴わせなくてはならない物資を運ぶ部隊は、戦う将兵よりももっと規模が大きかった。
項羽は、河岸の崖に立って、黄色く濁る雄大な流れを見下ろしていた。
彼は、大河を見据えながら、その前に置かれたただの一点に過ぎぬ自分の姿を、頭に描いた。
その一点が、ただの一点が、広大なこの天地を旋回させる。
項羽の気概は、巨大であった。
(速戦が、必要なのだ―)
彼は、思った。
眼下に、将兵たちを渡し終えた船の群れがあった。
船はこれから再び対岸に戻って、残された糧秣・輜重を運ぶことになっていた。
(この戦に、退路は要らぬ―)
彼は雄大なこの天地の中の、たかが一点に過ぎない。しかし、己が動くことによって全てが動くであろうことを、彼の内部の生命が確信していた。彼は、このとき満天の星を周囲に動かす、北辰星の気概を胸に蔵していた。
項羽は、結論を出した。
項羽は、後ろに控える韓信と陳平に対して、言った。
「― 沈めろ。」
控える両者に、衝撃が走った。
陳平が、聞いた。
「、、、全て、ですか?」
項羽は、答えた。
「兵に、もはや退路がなきことを示すのだ。一艘残らず、破壊せよ!」
将の、決断であった。
(来たか、、、!)
韓信は、彼がこの断を下すことを、半ば予想していた。もはや進撃した以上は、兵を勇躍して進ませなければならない。兵を進ませるためには、退路を断ってあえて死地に追い込むに、如くはない。いよいよ、項羽は必死必殺の戦に出ようとしていた。
(この将でなくては、兵を死地に追い込むことはできない。もはや、進むのみか。)
韓信は、身震いした。
直ちに、船の破壊が始められた。
将卒の目の前で、船に火が放たれた。
「な、何をするのか!、、、やめろ、やめないか!」
項伯は、手に手に火を持って船を焼き払い始めた者どもに動転して、必死に彼らを止めようとした。
しかし、無駄であった。上将軍項羽の威令は、軍中で絶対であった。項伯の制止の声など、誰にも聞かれなかった。
船は焼け落ちて、河の中に崩れていった。
将兵たちは、ただ呆然と河中の炎を眺めるばかりであった。
さらに立て続けに、軍中に命が下った。
「釜・甑(こしき)は要らぬ。全て壊すべし。廬舎(ろしゃ。兵営)も、全て焼き払え!」
項羽の命は、徹底していた。
今船を焼かれ、さらに釜甑を壊して廬舎を焼き払えば、兵はここに留まっていれば死ぬばかりであった。項羽は、兵に死ぬことを命じたのであった。留まって死ぬか、戦場まで駆けて戦い死ぬか。二つに、一つであった。
「何という、、、何ということだ、、、」
項伯は、立て続けに出された命に衝撃を受けて、甥のところに走って行った。
甥は、変わらず崖の上で河を眺めていた。
彼は、叫ぶように甥に言った。
「兵は、食がなければ枯れ果てるだけだ、、、静まれ、静まるのだっ、籍!」
だが項羽は、おじのことを醒めた目で見返すだけであった。
彼は、あせる項伯に対して、きっぱりと言った。
「私は、上将軍だ。項籍にあらず!」
そう言って、おじの言葉に聞く耳を持たなかった。
後ろに回って指令を出すような将では、項羽はなかった。彼は、兵法というものが、後ろで安全に指令している奴らの理論であることを、発見した。もはや、彼は兵法という体系が自分の道にとって何の役にも立たないことを、確信していた。
項羽にとって、勝つための処方はすでに見出されていた。
兵を、食わせなければよい。
そうすれば、前に進む。前に進ませるのが、将ではないのか。
(食わせるのが、兵法なのか?救民の官吏が、することではないか!)
項羽は、思った。
兵の機嫌を取って、戦ができるか!
将は、兵を威服させるのみ!
彼は、宋義のような腹のふくれた将が唱える兵法が、はっきり過ちであることを理解していた。
こうして全てを破壊した後に、項羽は卿子冠軍の総軍を集めた。
いまだ春には遠い、寒い冬の日であった。総軍は、河岸の崖の下に整列した。
項羽が、現れた。崖の上に立って、彼は眼下の総軍を一覧した。
退路を断たれた将兵たちは、もはやこの将の奇蹟にすがるより他はなかった。全員が、固唾を飲んで将の言葉を待った。
「― これより、鉅鹿に直行する。振り返るな!この俺の後に、付いて来い!私は勝つ!必ず勝つ!楚のために、諸君らのために、必ず勝つ!」
項羽の声は、大軍の隅々にまで響き渡った。誰一人、彼の声を聞き逃しようがなかった。それほどに人間を越えた、狼の放つ大音声であった。
一瞬の、沈黙があった。
それから、江東兵の中からウオオ!と叫ぶ声が起こった。
呂馬童が、項羽に呼応して叫んだ。
彼に続いて、江東の兵たちが皆叫んだ。
江東兵の声は、耳をつんざくような雄叫びとなって、渦巻いた。彼らもまた、将と同じく、狼の群れとなった。
その声が、総軍を揺るがした。やがて、声は総軍のものとなった。
「行くぞ!」
項羽が、号令した。総軍が、一斉に諾(おう)!と答えた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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