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十一 智者動く(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

天才の作戦は、時に無謀と紙一重である。

青史に燦然と輝く古今東西の戦勝は、後世の者たちから見れば至極平凡な勝利に見えることがある。
しかし、そこには時代に携わっていた人間の目からすれば、重大な決断と、危険極まる冒険の連続であった。輝かしい勝利の記録は、一歩過てば無残な敗者となりかねない危機を、何度も何度も積み重った結果なのであった。
勝利に導いたものは、一体何であったか。率いる者の、不退転の決意であっただろう。彼らの、余人が見ることができない展望を身通すことができた才覚であろう。最後に、そして結局のところは、天が与えた命運が彼らに味方したことであっただろう。勝利への道は、まことに狭いものである。そして後世の傍観者たちは、その道が実は狭いことを見落として歴史哲学を語る。
項羽は、決断をした。
だが、その決断は周囲の誰から見ても、無謀としか言いようがなかった。
兵法を知る韓信や項伯のような者にとっては、なおさら戦慄するべきものであった。
「危なすぎる、賭けだ。― 負ければ、全てが終わる。」
韓信は、全軍進撃の号令が出た軍中にあって、自分の命もまたこの集団と共に消えうせるかもしれない、と念じた。
「私もまた、項羽に死地に陥し入れられようとしている。理から見れば、この戦の結果は死だ。だが別の理から見れば、戦とは衆を険に投じ、兵を死地に赴かせなくては生かすことができない。」
進むことも、進まぬことも、それぞれに理があって衝突していた。その両者のどちらを取るかは、率いる者の意志であった。そして、項羽は一方を選んだ。駆けていく道は、一つに決まったのであった。
「― 于嗟(ああ)天よ!」
冷静な彼ですら、今は天に祈らずにはいられなかった。
まず河を渡る、必要があった。
広大な河水(黄河)を渡ることのできる地点は、それほど多くはない。
卿子冠軍全てを渡すには、多数の船が必要であった。
その上、対岸は危険であった。
大軍であるゆえに、渡河には日数が掛かる。その間に敵に気付かれれば、敵は水際で討つであろう。章邯ほどの将が、悠長に大軍をそのままで渡らせるはずもなかった。予想される犠牲は、すでに膨大であった。
「だから、無謀だと言うのだ、、、鉅鹿にたどり着くまでに、我が軍は討たれてしまう。」
項伯は、軍議の席で難じた。
韓信は、言った。
「― だが、いつかは渡らなければならないのです。今さら犠牲を惜しむわけには、参りません。それとも左尹(さいん。項伯の官職名)は、渡河する以外に秦を破る策を、何かお持ちなのですか?」
韓信に問われて、項伯は返す言葉がなかった。
彼ら二人は、以前下邳(かひ)で張良と共に顔を合わせていた仲であった。二人とも、兵法には通暁していた。だが、この場に及んで二人の項羽に対する視点は、少しく違うものを見せ始めていた。項伯は、常識的な兵法家であることを崩さなかった。ゆえに、甥の決断をいまでも無謀であると考えていた。韓信もまた、無謀であると考えるところは同じであった。だが、彼と項伯が違っていたのは、一点であった。
今は賭けを行なわねば、そのまま終わるだけだ。
項羽だけが、賭ける資格を持っているはずだ。
韓信は、そう思っていた。死生を共にする者として、そう思わずにはいられなかった。
項羽は、配下がこのような議論をすることを厭った。
彼は、諸将に対して言った。
「すでに決まったことに、逡巡は無用!今は、軍を渡河させることだけに、専念せよ!そのためだけに、策を出せ!何か良策があれば、言ってみろ!」
項羽の声は、大いなる威厳をもって響いた。
諸将は、軽々な発言を謹んだ。おじの項伯ですら、もうそれ以上の言葉を継ぐことができなかった。
その時、陣営の向うから、大音声が挙がった。
「― 諸将!なぜ、速やかに河を渡らぬ!」
陣営の者たちは、一斉に声の方角を向いた。
声は、陣営の帳の向うからであった。
「― 誰だ!」
項羽の合図で、ざっと帳が開かれた。
そこには、平伏する男が一人いた。
「何者!、、、卒、どうしてこのような者を陣中に入れた!」
諸将の一人、龍且が守備の兵卒を叱った。
怒られて、守備の兵卒たちはうろたえるばかりであった。彼らは、てっきりこの人物が諸将に通されるべき資格のある者だと、思い込まされていた。平伏している男の話術に、易々と篭絡されて通したのであった。
男は、言上した。
「項将軍― お待ちして、おりました。臣が、将軍の進路を謹んで掃き清めました。どうぞ、安心してお渡りください。」
「顔を上げよ―」
項羽は、男に命じた。
顔を上げた男は、まだ若さを残す青年であった。
白皙の美顔に、大柄な体。恰幅が良く、そのくせ汗臭さを感じさせない。智だけで瘠せ衰えて疎まれることもなく、かといって愚者と間違われることはありえない。一目で、人を魅了する外見を持っていた。この外見が、彼が他人を振り向かせるための、最初の資本であった。
男は、項羽に言った。
「項将軍。渡河の船は、すでに河水に用意しております。臣の放った偽計に秦軍は惑わされ、対岸は安全です。卿子冠軍の兵を、速やかにお渡しくださいませ。」
突然に入って来た男の言葉は、これもまた突然であった。
諸将は、彼の言葉を疑った。
しかし項羽だけは、違った。
彼は、笑みを湛えながら、男に言った。
「男。名は、何と申すか。」
男は、答えた。
「陽武戸牖(こゆう)郷の産、陳平と申します。お見知り置きを。」
「陳平― よろしい。」
項羽は、異形の目で陳平を見た。
もし言葉に偽りあれば、直ちに噛み殺す目であった。
陳平は、項羽の視線を受けても目をそむけず、さらに続けた。
「そして、もう一つ。追放された斉王田假の一族の田安が、済水の北で蜂起しております。」
「ほう。それも、お前の策か。」
「左様。臣が、田安を動かして蜂起させたのです。斉は、田安の蜂起によって分裂が始まっております。やがて田安は、斉兵を率いて項将軍のもとに馳せ参じることとなりましょう。」
陳平は、斉を分裂させることによって、項羽のために後方の憂いまで除いたと言うのである。
突如項軍に現れた男の策は、諸将を驚かせるばかりであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章