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十 北へ

(カテゴリ:楚滅秦の章

楚軍は、ついに進んだ。

目指すは、趙の鉅鹿。そこで趙王たちを包囲する、秦軍が相手であった。だがそこには連戦連勝の男、章邯が待ち受けているはずであった。
行軍の中途で、斉から一つの朗報が届いた。
斉の田都将軍が、楚に呼応すると言って来た。
もはや宰相田栄たちを後に残して、配下の兵を率いて趙救援に向かうという。
「楚が動いたことが、こうして加勢を呼び込んだ。まことに幸先が良い。」
項羽の軍師を任じる范増は、喜んだ。
卿子冠軍は、北上した。
北上した先には、広大な河水(黄河)がある。
南の淮水、江水(長江)と並んで、大陸を東西に縦断する巨大な水路である。
この水を渡る感覚は、海峡を渡るに等しい。海峡の向うには、楚兵たちがいまだ知らぬ趙国があった。
当陽君黥布と蒲将軍の兵二万が、先発隊として河水を渡った。
兵站を考えると、一時に動かせるのはこれが限界であった。二万の兵は、川の向うに構える敵の強弱を知るための、威力偵察であった。
だが、やはり秦の守りは固かった。
もとより、章邯は楚軍が渡河してくることを待ち望んでいたのであった。備えは、万全であった。
当陽君と蒲将軍は、すぐに二万の兵ではとても相手にならないことを、理解した。
― 総軍で当らない限り、秦と戦うことはできません。
黥布は、冷静な目で現状を後方に報告した。
項羽は、陣営で諸将を集めて軍略を練った。
項羽の横には、范増におじの項伯、それに郎中の韓信も控えていた。
諸将が囲む地面の上には、韓信が描いた趙の地図が置かれていた。
項羽は、韓信に聞いた。
「― 鉅鹿までの、行程の日数は?」
韓信は、答えた。
「鉅鹿は河水を渡って、さらに二百里の向うです。いくら急いでも、半月はかかるでしょう。」
項伯は、言った。
「今の時点でこれだけの大軍を渡河させるのは、とても無理だ。糧秣輜重を輸送する用意が、整わない。進撃の準備には、さらに一月が必要であるか―」
項羽は、叫んだ。
「遅い!、、、そんなに待つことは、できない!」
項伯は、甥に言った。
「だが糧秣輜重がなくては、兵は戦うことができない。干戈交える会戦とは、戦全体のごく一部にすぎないのだ。まず不敗の態勢を作ってからでなければ、戦に勝つことすらできない。」
それが、兵法の道理であった。
項伯は、自分が学んだ兵法の道理を、甥に語って聞かせた。
だが、項羽は承知しなかった。
「だめだ!待っていては、趙は亡びる。もう、時はないのだ!」
項羽は報告された状況から、趙が日を置かず崩壊するであろうことを分かっていた。それは、彼の確信を持った直感であった。これを押し止め、秦軍を倒すためには、残された時はいくばくも残されていない。今の戦況は、兵法の道理に従っていれば敗れてしまう。
項羽は、無言で目の前の地図をじっと睨み続けた。
(いくら、この甥でも―)
道理は、破れない。
項伯は、そう思いながら、項羽を見ていた。
しばらくの沈黙の後、項羽は韓信の方を向いた。
「、、、甬道は、崩せるか。」
項羽は、韓信に聞いた。
「― 甬道、ですか。」
問う韓信に、項羽ははっきりと繰り返した。
「そうだ。この、甬道だ!鉅鹿に向かう、甬道だ!」
項羽は、地図の上に描かれた秦の甬道を叩いた。河水の各点から鉅鹿の包囲軍にまで延びる、壁で仕切られた運搬路であった。
韓信は、項羽が何を考えているのかが、分かった。
それで、彼は客観的に意見を述べた。
「秦が甬道を築き始めたのは、冬に入ってからです。日に乾かされる日数少なく、その上最近の長雨によって、強度は弱まっているはずと考えます。ゆえに―」
韓信は、結論を言った。
「大人数を使えば、掘り崩すことは可能でしょう。」
項羽は、莞爾(にこり)とした。
「よし!」
韓信は、付け加えた。
「― しかし、当然秦軍は守備の兵を厚く配備しているはずです。秦軍から、必ず攻撃されます。」
項羽は、韓信の言葉を聞いて、さもありなんという表情をした。
(それを、しようと言うのか、、、この男は。)
韓信は、確信を得たがごとき項羽を見て、恐ろしくなった。
項羽は、それから再び地図を一瞥した。
睨み付けた灰色の瞳は、地図上の一点に止まった。
「― ここだ!」
彼は、懐の匕首(あいくち)を抜いて、地図にぐさり!と突き立てた。
「― ここに、全ての甬道が集まっている。」
突き立てた場所は、まさしく鉅鹿であった。項羽は、突き刺した匕首をぐいいと引き寄せた。牛皮に描かれた地図は破れて、河水の地点まで引き裂かれた。
このとき項伯が、ようやく甥の真意を分かって、声を挙げた。
「む、無謀だ!それは、無謀だ!、、、何とか言ってやってください、亜父!」
項伯は、反対の声を求めて、范増に声を掛けた。
だが、范増は項伯の声に、同調することがなかった。
范増は、静かに言った。
「― 我らは、上将軍に命を預けたのだ。従おうではないか。」
項伯は、声を高めた。
「亜父!」
しかし、范増はもはや答えることがなかった。
(もう、この先は兵法の道理ではない。この子の天才が、何かを成し遂げるであろう―)
彼は、そう思って目を閉じた。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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