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六 哀しき稼業(2)

(カテゴリ:楚滅秦の章

会戦の結果は、絵に描いたような全滅であった。

兵を率いていたのは、張黶(ちょうえん)と陳澤であった。二人は、もともと張耳が陳餘に出兵を要請するために寄越した、使者であった。陳餘は二人から出兵するように言われても、秦軍を恐れて動くことをためらった。だが何度も突き上げられて、仕方なく五千の兵を与えて彼らに秦軍を攻撃させたのであった。自分は、出馬しなかった。
こんな煮え切らない用兵では、秦軍に勝てるわけがなかった。
張黶・陳澤は、戦死した。
「それ見たことか、、、私が動かなかったのは、正しかったのだ。」
陳餘は、自分の無策と臆病を自分一人で正当化して、ますます動かなくなった。
包囲された張耳は、陳餘の臆病を憤った。
ここに、古くからの盟友であった張耳と陳餘の仲に、決定的な亀裂が入った。
不利な戦況で人の和までが失われては、趙はもはや絶体絶命であった。

完勝した秦軍は、再びその強さを敵に知らしめた。
章邯は、帰還した三将軍を出迎えて、言った。
「ご苦労。これで、趙の平定は時間の問題となったであろう― 迅速な賞罰を、怠るな。」
彼はそれだけ言って、陣営の奥に引っ込んでいった。
章邯の配下に対する素っ気無さは、いつものことであった。彼にとって重要な配下とのつながりは、あくまでも明確な賞罰であった。それだけが将と配下との信頼関係を作ると、彼は冷静に規定していた。それ以外の心のつながりなど、章邯は歯牙にもかけなかった。
奥にある自分の陣幕に入った章邯は、無言で机の前に座り込んだ。
このとき彼の心中には、戦とは違う影が忍び寄っていた。
(咸陽の、雲行きがあやしい。なんで、このようなことまで気にしなければならないのか、、、!)
李斯が斬られて、首脳陣が全て死んだことを聞いたとき、章邯はわずかに不安を持った。
そして最近、咸陽から章邯に宛てて、督促のための使者がやって来た。
使者は、上からの命として、このような言葉を述べた。
― 多大の兵卒車馬、糧秣輜重を費やしながら、まだ趙を平定できないのか。楚も韓も斉も、まだ生き残っているではないか。どうして、直ちに打って出て敵を亡ぼさないのか。兵の出費のために、宮中の費えにまでしわ寄せが来ている。速やかに、賊を平らげて平時に戻すべし。
現在朝廷の権力を握っているのは、中丞相の趙高であった。この命は、趙高の言葉であることに、相異なかった。
章邯は、使者の言葉を謹んで聞いた。
だが章邯の憂慮は、大きなものとなった。
(― 中丞相は、兵事を全く分かっていない!)
兵事を知らぬ後方の大官が、前線の将軍の指揮に口を出す。ましてや、宮中の外を何も知らぬ宦官ふぜいに、兵の大事さが分かるはずもない。章邯は、自分がいま歴史の中で繰り替えされてきた忌まわしい構図に入り込んでいるのかもしれないと、思い始めた。そしてそれを思うと、目の前が真っ暗になるのであった。
彼は、机の前でうなだれて座っていた。このような打ちひしがれた表情は、配下の前では決して見せることがなかった。
彼は、昔のことを思い出した。
彼が崇敬する王翦将軍の、ことであった。
王翦は、楚平定のために六十万の兵を率いる大戦に出ようとしていた。そのときまだ秦王であった始皇帝は、彼の出陣を自ら灞水(はすい)のほとりまで出向いて、送り出した。その王に、王翦は言上した。
「― どうか、臣のために美田と美宅と、それに園池を拝領いただけないでしょうか?」
王は、将軍ほどの人物がどうして貧を憂えているのかと、いぶかった。
王翦は、答えた。
「大王の御心が臣に向かっている今こそ、子孫のために産を得ておこうと思いまして。」
王は、将軍の言葉を笑った。
王翦は、函谷関に着いてからも使者を送り返し、美田を頂きたいという同じ要求を繰り返した。何度も繰り返し、都合五回も使者を送ったのであった。
そのとき軍吏であった章邯は、将軍ともあろう名人があまりにも恩賞にこだわり過ぎると思って、王翦に言った。
「将軍!、、、おやめください。あなたにふさわしい行動では、ありません!」
若い章邯は、真剣であった。
老練な王翦は、章邯ににこりと微笑んで、それから諭すように言った。
「― 私が王から借り受けた、この六十万の兵。これが、王にとって意味することは?」
章邯は、答えた。
「王を偉大ならしめる、討伐の兵です。」
王翦は、その彼の言葉に続けた。
「そして王を襲えば、咸陽を奪うことのできる大兵、、、」
章邯は、このときはたと将軍の真意を悟った。
王翦は、言った。
「王は、猜疑心の強いお方だ。いや、王たる地位にある者は、猜疑心を持たずにはいられないものなのだ。いま、秦国の兵卒を空にして、この私に預けている。私は、野心のないことを示して自分の地位と田宅を得ることにしか興味がないと表明することによって、王の疑いを解こうとしているのだ。朝廷に疑われたならば、三軍の勝利は全て空しいものとなる。勝つためには、致し方のない地固めなのだよ。」
王翦将軍は、偉大であった。
章邯は、将軍が軍吏たちに語った言葉の一つを、思い出した。

― 将に兵権を与えるものは、朝廷なのだ。将の仕事とは、朝廷に請け負わされて働いているに過ぎないことを、忘れてはならない。良く戦う将であっても、朝廷が疑えば戦うことができなくなるだろう。楽毅の運命を、見るがよい。軍略に優れた比類なき名将ですら、後背の無知な朝廷に足元を掬われるのだから、、、

章邯は、いま机に向かって、咸陽に向けて重々釈明する上奏を長々と書いていた。
そして、これだけでは足りなかった。
彼は、趙高に媚びるために、これまでの勝利で得た功績を全て返上して、封地を中丞相の自由な処分に任せることを申し出た。
― 臣は、帝国の繁栄だけを願っております。速戦が遅れた罪を自ら罰し、これまでの功績を閣下に返上いたします。よって、勝利までもうしばらくの猶予を、どうかお与えください、
、、
章邯は、このような文書を書きかけたが、怒りで木簡を叩き割った。
しかし、是非もなかった。
怒りを何とか押さえて、もう一度書簡を書き上げて、使者に渡した。
章邯は、自分が王翦将軍のように達観できないことを、見出していた。
(― 兵を知らぬ政治などに、軍事が振り回されてしまう。将軍とは、いったい何という職業であるのか。どうして、無知な者どもに、邪魔されなければならないのか、、、!)
章邯は、腸(はらわた)が煮えくり返って、一晩中眠れなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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