«« ”六 哀しき稼業(2)” | メインページ | ”七 昌邑の餓狼(2) ”»»


七 昌邑の餓狼(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

この頃の、沛公の動きである。

卿子冠軍から離れて別行動を取ることが決まった沛公軍は、ひとまず北の城陽に向かった。それからこの附近の杠里(こうり)という土地で秦軍と塁壁を築いて戦い、さらに成武において東郡の郡守・郡尉を攻め、これを大破した。河水(黄河)を渡って侵入した王離の秦軍と会戦したのは、このときである。樊噲・灌嬰の活躍がめざましかった。功により樊噲は五大夫に、灌嬰は七大夫に授爵された。
范増が沛公を別働隊として後背に残した判断は、やはり正しかった。沛公軍がいなければ、彭城は危くなっていたであろう。卿子冠軍が安陽で動こうともしないので、この頃実際に戦っているのは沛公軍ばかりであった。
成武で勝利した後、沛公軍はすぐ近くの昌邑に進んだ。ここが、附近で最後の秦軍の拠点であった。
副将格の曹参が、沛公に言った。
「兵糧が、尽きかけています。攻勢は、この辺がひとまず限界ですな。」
沛公は、言った。
「しょせん、卿子冠軍の手伝いだからな。略奪してまで戦を続けるまでの、ことでもないか、、、すぐに陥ちなければ、引き上げることにしよう。」
この辺りが、沛公の将としての利点であった。武勇を誇って、無理に戦ったりなどしない。彼は、自分の得にならない武勇などを欲しがらない、計算づくの平凡さがあった。
「― おーい、夏候嬰!」
沛公は、執珪(しっけい)の夏候嬰を呼んだ。
「― お呼びで、ございますか?」
夏候嬰が、駈け付けて来た。すでに爵位持ちの身分であるが、相変わらず自ら沛公の馬車を操っていた。それが、彼の公に対する忠誠なのであった。沛公軍の首脳たちは、ほとんど全員がもとは低い身分の者たちばかりであった。成功を重ねて高位に昇っても、彼らの普段の態度は昔の片々たる庶民時代と、ほとんど変わることがなかった。それを見た外部の観察者は、ある者は地下(じげ)の土臭さを感じて、侮った。しかし別の慧眼の者は、むしろそこに沛公軍の強さを感じて恐れた。
沛公は、夏候嬰に言った。
「馬車を出せ。少し、行くところがある。」

行き先は、昌邑の郊野の、沢のほとりであった。
夏候嬰は、馬を操りながら、後ろに座る沛公に言った。
「また、妾ですか?」
沛公は、言った。
「妾に会うのに、一隊を連れて行くかよ。」
沛公は、このとき樊噲にも一隊を率いさせて、連れ立っていた。
夏候嬰は、沛公に言った。
「公。差し出がましいことかもしれませんが、ご嫡子はお取替えにならないほうが、よいですよ。跡目がはっきりしないと、家庭の乱れの元になります。公はもう大きな地位をお持ちなのですから、家庭の乱れは大きな乱の元になりますので、、、」
沛公は、夏候嬰に言った。
「― 阿雉から、何か言われたか。」
夏候嬰は、びくりとした。
「いや、何も、、、」
沛公は、否定する夏候嬰に対して、言った。
「― 俺の家のことだ。お前が、口出しすることではない。沛に残した子など、はっきり言ってどうでもいい、、、」
沛公はそう言ったが、しかし少し考えて、言葉を付け加えた。
「、、、だが、あいつの母親を俺は裏切ることは、しないよ。」
沛公はこう言って、それ以上話をしなかった。

昌邑の周囲には、河水の氾濫によって入り組んだ沼沢地が広がっていた。沼沢の向うは、秦の官憲ですらも手の届かない、無法地帯であった。沛公は、その無法地帯の入り口に一隊を留めて、陣を敷いた。
一刻余りが、過ぎた。
冬の日が早くも傾き始めた頃に、沢の向うから人影が近づいて来た。
沛公は、やって来た男に、怒気を含んで言った。
「― 遅い。盗賊のぶんざいで、諸侯を待たせるんじゃない。斬るぞ!」
やって来た男― それは、鉅野沢の怪人、兇悪なる盗賊の頭、彭越であった。
彭越は、髪も髯も伸ばし放題の奇相であった。ひどく臭う褐(かつ。毛布)のぼろ服を、羽織っていた。年齢は、相当老いているようにも見えたが、しかしかなり若いようにも見えた。髯だらけの顔に、目だけが炯々と光っていた。この寒空に、彼はどうやら泳いで来たようであった。全身、ずぶ濡れであった。しかし、彼は少しも寒がっていなかった。体から、蒸発する気が立ち昇っていた。その気が近寄ると、ことの他臭かった。
彭越は、陣取った沛公の前に進み出て、拝礼もせずに言った。
「― 一年前まで秦の官憲に追われていらした方が、今や諸侯でございますかい。まさに昇龍の勢いの出世でございますなあ、へ!へ!へ!」
樊噲が、男の無礼に対して、殺す構えを見せた。
しかし、彭越は彼を恐れることもなく、公の御前に進んでそれから深々と叩頭した。
彭越は、頭を上げることもなく、沛公に言った。
「遅れたのには、わけがございますよ。ちょっと、怖気づいた手下を斬り捨てて来ましたところで。糞どもは、殺さなければ分かりはしねえ。」
沛公は、最近鉅野沢で挙兵したこの彭越と、同盟するために来たのであった。
同盟を打診して来たのは、彭越の方であった。
沛公は、彼の申し出を受けることにした。すでに、彭越は挙兵してから配下の湖賊どもを操って、一地方勢力となっていた。敵対すると、厄介であった。無理押しをしない方針の沛公としては、盗賊であろうが受け入れることが得策であった。
沛公は、彭越の顔を上げさせて、あえて彼と対等の席に座らせた。
彭越は、にやりと笑って、言った。
「さすが、沛公だ。他の奴らとは、違う。」
沛公は、彭越を見て思った。
(餓えた、狼と言うべきだな。人間の基準で、こいつを見てはならない。)
彼は、まず獣が望むところを聞こうとした。
「彭越、、、お前は何のために、兵を挙げた?」
彭越は、へ、へ、と笑って答えた。
「権力を握るために、決まっているでしょうが。権力を握って、快楽を貪る。それ以外に、命を賭ける意味などあるもんか、、、沛公、あんただって、そうだろう?」
沛公は、彼の言葉に、むしろ笑いたくなった。
彼は、言った。
「分かりやすい、男だ。では、どうして俺に言い寄って来た?」
彭越は、答えた。
「あんたが、賭けるべき男だからですよ。今ようやく、賭ける時がやって来た。それで、虫けらどもに載せられるふりをして、兵を挙げた。賭ける時が来たならば、賭け金を増やしてくれる奴に賭けなければならねえ、、、それだけですよ。」
沛公は、さらに聞いた。
「賭けるべき、時が来たか。お前は、なぜそう思った?」
彭越は、言った。
「そりゃあ、革命が起るからですよ。秦が、倒れるんです。俺が一国を盗める機会は、後にも先にも今しかねえ。賭け時は、今。賭ける狗(いぬ)は、沛公、あんたです。」
そう言って、ぶははははと笑った。公を狗呼ばわりした無礼に、樊噲の手が腰の刀に伸びた。沛公は、笑ってそれを押し止めた。
「― さすがに、楚まで悪名の聞こえた湖賊の頭だ。もっと、聞かせてもらおうか。」

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章