一 邯鄲の家(1)
戦国北方の雄とは、趙国のことである。
国の貴族たちも、武人たちも、市井の国人たちもまた、それを確信していた。
戦国北方の雄とは、趙国のことである。
国の貴族たちも、武人たちも、市井の国人たちもまた、それを確信していた。
子楚が呂不韋と共に邯鄲を脱出した直後、城市の者どもは怒りに任せて、城内にあった彼の屋敷を襲撃した。子楚は昔人質として王族らしからぬみじめな生活を強いられていたが、呂不韋からの援助を得てからは、邯鄲の城市の中でも一際目立つ立派な屋敷に暮らすようになっていた。
政と母はもう一歩で殺されかけたが、二人とも何とか生き延びた。
政が受けていた仕打ちを知った周囲の者は、しかし加害者の子弟たちを咎めることはできなかった。
実は、華陰と華陽の一族は、かつて趙王室につながる血筋であった。
趙を出た政は、生まれて初めて自分の故国の土を踏んだ。
嫪毐(ろうあい)という宦官が、急速に秦の中で力を付けるようになっていた。
全権を掌握した後の秦王の攻撃は、迅速にして苛烈であった。
韓を亡ぼした翌年、秦は趙に総力を挙げて攻勢を行なった。
覇業に進む若い秦王には、常に側に仕える謀士がいた。
李斯という、男であった。
李斯は、それから過去の秦国の謀臣たちが犯した戦略的過失を、適確に説明していった。
李斯は、かつて荀子の下で学んだ時代があった。その時代、彼の最大の論争相手は、同学の韓非であった。
秦に赴いた李斯は、見事に秦王に取り入ることに成功した。彼の弁舌の力と、自らの運命を切り開く気概のなせるわざであった。李斯は、以降秦王の謀士として仕えることとなった。
『史記』老子韓非列伝によると、李斯は韓非にその才が及ばず、そのため秦王の元に赴いた韓非に自分の地位が取って代わられるのを恐れたという。そのため、あえて秦王に韓非について讒言をなして陥れようと企んだとまで書かれている。李斯は、ここでも漢の学者によって、愚者として嘲弄の対象とされた。
秦王は、言った。
秦王は、獄中から韓非が毒を仰いで命を絶った旨の報告を受け取った。
天下の主人の始皇帝が、最も忌み嫌ったことは二つであった。
胡亥は産まれた後、始皇帝によって趙高に預けられた。
心中で思っていることは正反対であれ、胡亥は父帝の前ではそれを一切表に出さず、実に忠実に仕えた。
その日も、始皇帝は復道(ふくどう)・甬道(ようどう)で繋がれた二百七十の宮殿望楼のどこかに潜んでいた。大臣百官たちは、この数年皇帝に直接会うことすらほとんど出来ないようになっていた。壁を巡らせて奥に潜む皇帝は、ついに外界の他人を一切拒絶しようとするその心を、形として完成させたかのようであった。それは、膨大にして完全に孤独な空間であった。
始皇三十七年十月、癸丑の日に、始皇帝は東に向けて巡幸に出発した。
始皇帝の巡幸は、征服した各地を威圧するための旅であった。
始皇帝は、言った。
闇の中に白く映る少女の姿を前にして、始皇帝は言った。
始皇三十七年七月の夜が明けた、次の日―
李斯は、これまで存在をまるで無視していたこの法刑に詳しい宦官が、どれほど大それたことを企んでいるのかを始めて知った。これまで趙高は、始皇帝の影のように目立たず付き従っていただけの存在であった。その先入観と、いま李斯の目の前に展開された企みとの格差はあまりにも激しすぎた。
李斯は、逡巡して言った。
趙高は、公子胡亥の客人を使者として、上郡にいる扶蘇と蒙恬に向けて詔を送った。始皇帝の名の下に、彼ら二名に自殺を命じる詔であった。
かくして巡幸の列は咸陽に入り、ついに二世皇帝胡亥の名で始皇帝の喪が公布された。
二世皇帝の即位から明けて翌年の春、先年に続いて巡幸がまたも行なわれた。
第十章 挽歌の章