一 歴史の『勢』
孫子兵法に、曰く。
孫子兵法に、曰く。
陳勝、陽城の人、字は渉と、『史記』陳勝世家にはある。
陳勝たちは、このとき大沢郷の小さな亭に逗留していた。亭は小さな宿舎で、屯長の陳勝と呉広に、それと県から派遣されていた監視の将尉だけが屋根つきの部屋に泊まることができた。残りの九百人の戍卒は、亭の外で野営であった。
居並ぶ兵たちの前に、陳勝は立った。
陳に都を置いた陳勝のもとに、各地からありとあらゆる勢力が、傘下に付きたいと馳せ参じてきた。
陳からはるか東の、下邳の城市。
起り始めた反乱は、楚以外の土地にも速やかに広がっていった。
陳勝から兵を借りて北に向かった張耳と陳餘の二名は、白馬津から河水(黄河)を渡って趙の土地に入った。
戦国時代には、縦横家と呼ばれる専門家たちがいた。
陳勝の蜂起の知らせは、南の地域にも広がっていった。
項梁は、陳勝と呉広が自ら扶蘇と項燕と名乗って蜂起した知らせを聞いて、舌打ちをした。
殷通の前に、項羽が現れた。
江東を掌握した項梁と項羽は、これから風雲の中に乗り出していくこととなるであろう。項羽は、北の彭城に行かなくてはならない。そこには、虞美人が待っているはずであった。
泗水の流れに沿った茫漠たる平原に位置する沛県は、主に麦作りの土地であった。しかし土地はあまり豊かであるとはいえず、住民は他に雑穀を作ったり蚕を飼ったりして、様々な仕事をして生計を立てていた。季節は陰暦の九月、今や夏が終わって秋たけなわであった。普段の年ならば刈り取った粟で酒を醸して、社で秋の祭りを行なうべき頃であった。しかし今年の沛県は、どこの郷里もひっそりと鳴りを静めていた。全ての城市も邑も、これからの時勢の推移を見守っていた。
「勝ったぞ!沛は、我らのものだ!」
早朝、まだ皆が寝静まっている頃。
沛公軍は豊に駆け付けて、包囲する秦軍と一戦した。
皇帝の近くには、博士と呼ばれる者たちがいた。彼らは、全国から該博な知識の持ち主が選抜されて、一種の諮問機関として勤めていた。
少府章邯は、このとき自邸で上奏のための文を書いていた。
趙高が良いと言えば、二世皇帝が勅許したも同然であった。
戦の結果は、全て章邯の筋書き通りに進んだ。
張楚国の、終わる時がやって来た。
天下のどの土地を回ってみても、みな同じように争乱の最中であった。全土を力で押さえ付けていた秩序が揺らいだとき、かくも激しい動揺が起こるのであろうか。
韓信は、久しぶりに淮陰の城内を歩いていた。
「韓さん、、、!」
楚の各地が、次々に動き始めた。江東でも、淮水流域でも、北の沛でも、雲のように群雄が沸き起こって独自の動きを始めた。江東の項梁は、陳勝が敗れた後の楚の器を受け継ぐために、兵を急いだ。
項梁は、范増を招き寄せてしばし会談した。
北楚の一軍閥として旗上げした沛公たちの、その後について書くことにしよう。
「なにっ!、、、豊が、魏軍に取られた?」
下邳に向けて進む項梁軍は、城市を接収するために先遣隊を送り込んだ。
「この下邳をさらりと明け渡したのは、やはり張子もまた江東軍が楚の柱となるべきだと、見られたからなのでしょう?」
張良は、配下の一同を連れて、下邳を離れた。
「― 遅かったね。」
楚を統一した江東軍は、胡陵に入ってさらに西に進もうとした。
沛公は、項梁に言って兵を借りることを望んだ。項梁は沛公の実力を評価していたので、兵卒五千人と五大夫の位にある将十人を与えた。
この襄城の戦の結果は、後々までも項羽の兇行の一例として、たびたび引用されることとなった。
十数年前の沛の城市で、こんなことがあった。
対局は、終わった。
田栄が斉に戻って行なったことは、王の田假を襲うことであった。
「項羽、お前には妻子がいるのか?」
章邯という、思いもかけぬ名将の出現によって救われた秦帝国は、その後奮起して立ち直ったのであろうか?
宮中の策謀に関しては、李斯などよりも趙高の方がはるかに上手であった。
胡亥の前にいたのは、一人の老政治家であった。
丞相李斯は、五刑の全てを受ける処断が下った。
宋義が、言った。
楚軍に、急報が入った。
この頃、甥の項羽と沛公は、外黄から陳留を攻撃していた。