桜の季節が、やって来た。
いや、やって来てしまったと、言うべきか。
満開ともなれば、花の景色を見ることは、それから一週間も続かない。
ちるはさくら落つるは花のゆふべ哉(安永九・二・十五)
蕪村の桜の句ならば、私としては、まずはこのうたを。
手まくらの夢はかざしの桜哉(安永二・一・二七)
桜の季節は、一瞬の夢である。酒でも手にしながら、川を見に行こうか。
京都市中を流れる白川は、琵琶湖疏水といったん合流した後、岡崎の平安神宮前で再び別れる。
その別れ口から、すでに花が始まっていた。
花に暮れぬ我(わが)すむ京に帰去來(安永二・三・七)
この句は、言うまでもなく陶淵明の引用である。中国人の陶淵明にとっては、春の花は桜よりも桃であったろうが。
岡崎から流れた白川は、三条通りの下を通る。その白川橋から向こうは、しばらく柳並木である。東大路通りを渡ったところから、再び桜景色が始まる。
ちりつみて筏(いかだ)も花の梢かな(安永六)
桜並木に沿って、民家の橋々が川を跨ぐ。有済橋まで、桜が続く。
新門前橋からは、楓の木が若葉を伸ばしている風景が見えた。桜は散っていくが、新緑はこれからである。
さらに川を下れば、再び花景色となる。水辺は、多くの花見客であふれている。
アオサギなどの水鳥も、鴨川からときどき飛んできたりするのだ。
大和橋を渡った向こうは、もう鴨川である。ここで、白川は鴨川に流れ落ちていく。
満開の花も、やがて散りゆき水に流れ去っていくのか。
うたヽ寝のさむれば春の日くれたり(安永七~天明三)