中国歴史小説「知兵之将」
今、鈴元仁は歴史小説をブログで連載しています。 内容は、二千二百年前(!)の古代中国です。 始皇帝・項羽・劉邦・韓信・張良・虞美人・呂太后、、、 これらの名前にピンと来た方、あるいは、 郡県制・儒教・陰陽思想・法家思想・孫子兵法、、、 こういったことどもにちょっと興味をそそられる方、 よろしければ読んでやってください。 もしお気に入れば、ついでにランキング投票も。 |
北陸で大地震があった。犠牲者が出たことは、誠に痛ましいことである。しかし田舎の地域を直撃した地震は、これからの復興がますます難しくなるだろう。今、日本の地方は体力を消耗している。地震が地方にとって今の被害と長期的な衰微の二重の災いとならないことを、祈るばかりだ。
地震では、古い寺院や家屋が集中して倒壊していた。この京都も、ひとたび大地震が来れば寺社の多くが壊滅するかもしれない。京都は非常に長い間、大地震による被害に見舞われていない。だから戦乱が終わった徳川時代以降は建物がよく保存されている(近年起った最大の破壊は、幕末の蛤御門の変による長州対幕府の戦闘による焼き討ちである。これによって鴨川以西の京都市中は壊滅した)。
だが、この日本で地震の脅威から免れている土地など、どこにもないのだ。現に、東山から比叡山地に向けて、活断層が走っている。
そんな憂いの中、今日気象庁によって京都市内での桜の開花宣言が出た。すでに、早咲きの桜はあちこちで開花している。写真は、知恩院の塔頭(たっちゅう。脇寺)の、保徳院の桜。
平安神宮前を流れる疏水のほとりも、桜並木が見事である。
今は、まだ咲いていない。しかしつぼみが赤くふくらんで、はちきれるようだ。これからあっという間に、満開となるだろう。背後の柳はすでに青めいて、春の装いとなった。
桜の季節が、やって来た。
いや、やって来てしまったと、言うべきか。
満開ともなれば、花の景色を見ることは、それから一週間も続かない。
ちるはさくら落つるは花のゆふべ哉(安永九・二・十五)
蕪村の桜の句ならば、私としては、まずはこのうたを。
手まくらの夢はかざしの桜哉(安永二・一・二七)
桜の季節は、一瞬の夢である。酒でも手にしながら、川を見に行こうか。
この三月末には、私鉄二社が廃線となった。
今や、人口の停滞によって新線が建設されるのは、ほとんど東京圏だけとなってしまった。隠れ鉄道マニアの私としては、淋しい時代となってしまった。
だがこのインクラインは、すでに廃線となってから五十年以上が経過している。線路の上を車両が走ることは、すでに絶えて久しい。今は線路だけが残されて、花の下に休んでいる。
明治時代の琵琶湖疏水建設事業の一環として、台車に舟を載せて高地まで引っ張り上げることを目的として敷設された。滋賀県と京都府との間には、比叡山塊が延びていて交通の難所となっている。その利便を図るために、疏水とインクラインを使って舟運のルートを開通させたのであった。
だが舟運の意義は、鉄道と自動車によって意義を失った。それで、順当に廃線となった。しかし、市街地を走る鉄道ではない特殊な路線であったから、更地にされることもなく残された。元はこの横の路面を走っていた京阪京津線は、地下鉄の開通によって廃されて、今や跡形もない。
建仁寺は、祇園発祥の寺。この寺は日本で初めて茶の栽培を始めた寺として有名であるが、その茶園があった境内が、後世に祇園の茶店となった。東洋では茶店、西洋ではカフェが都市の中でまず社交の場として花開いた。茶とコーヒーという代表的な嗜好品を巡って、人が集まってくるのであった。だが社交の場であるから、やがてあっちの関係の遊びをさせる店もまた、混入してくる。そうやって、東でも西でも自然に歓楽街が形成されていったのだ。ちょっといかがわしくてなおかつ快い刺激こそが、かつての茶店やカフェの持つ磁力であった。現在ではすでにこのような場は、インターネットの世界に移っているのであろうか?
今は静かな寺の門前も、春になれば辻に花が咲きこぼれる。こればかりは、道行く人を見返らせずにはいられない。それほどに、桜は刺激的で官能的な花である。
比待(ころまち)得たる桜狩り、比待得たる桜狩り、山路の春に急がむ。
謡曲『西行桜』は、全文が名文。京都市中の桜の名所が、謡(うたい)の中に色々と出てくる。
上なる黒谷下河原、昔遍昭僧正の、憂き世を厭ひし花頂山、鷲の御山の花の色、枯れにし鶴の林迄、思ひ知られてあはれなり、清水寺の地主の花、松吹風の音羽山、爰はまた嵐山、戸無瀬に落つる、瀧津波までも、花は大井河、井堰に雪やかかるらん。
ここ清水寺に、境内にある地主神社、音羽山の桜もまた、謡曲の作られた室町時代当時からの桜の名所であった。
埋木(うもれぎ)の人知れぬ身と沈め共、心の花は残りけるぞや、花見んと、群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の、咎にはありける。
西行法師が隠棲する、西山の庵室の桜を見ようと見物の客がひきもきらない。修行のさまたげとなることを嘆じた法師が、上の歌を歌った - 花を見ようと群れて人が来ることだけが、惜しや桜の咎ではないか - 。その夜、法師の夢枕に桜の老木の精が現れて、法師の歌を難じる。どうして非情無心の草木に、憂き世の咎がありましょうか。それでも桜の精は今宵法師と会合できたことを喜び、やがて夜が明け夢が覚めていくことを惜しみつつ、幽玄に消えていくのである。
夢は覚めにけり、夢は覚めにけり、嵐も雪も散り敷くや、花を踏(ふん)では、同じく惜しむ少年の、春の夜は明けにけりや、翁さびて跡もなし、翁さびて跡もなし。
しかし、この清水寺は桜の名所であると共に、紅葉の名所でもある。桜の花の陰では、楓の若葉が今にも萌え出し始めている。花は散っても、ここは新緑に包まれるであろう。いかで夢ぞ覚めんや。いかで夢ぞ覚めんや。
ここは、京都女子大前。
キャンパスを左右に控える通りも、花のトンネルと化していた。
大学のみならず、どこの学校でもたいてい一本ぐらいは桜の木が植えてある。入学式・始業式のシーズンに合わせて、新しい学校生活を始める諸君に、満開の花を披露することになるのだ。私個人は新学期のシーズンで心躍った記憶があまりないのだが、、、個人的経験は、この際置いておこう。
学校の桜は全国どこでも見られるものなので、私はあえて被写体としていない。
だが、このキャンパス通りは、その向こうにも桜がある。
東山、阿弥陀ヶ峰の頂には豊臣秀吉の墓所がある。
彼の死後、墓所の麓には壮大な豊国社が建立された。
しかし、家康はこの神社の存在を許さず、北政所の嘆願を無視して徹底的に破壊した。それで、徳川時代を通じてその遺構は全く消えた。
しかし、徳川幕府の終焉と共に、明治時代になって豊国神社が方広寺の敷地内に再建された。この秀吉の墓所も整備されて、社殿がしつらえられている。社殿の背後に控える阿弥陀ヶ峰には、頂上に秀吉のための五輪塔がある。以前に一度登ったが、ひたすら続く石の階段が長大であった。真夏の最中であったので、ひたすら汗が吹き出た。
灯篭には、豊臣家の桐紋がある。その周りにも、桜が巡っている。
だが本物の桐の花の季節は、桜が散ってから間もなくやって来るだろう。
花の盛りは、過ぎた。
今はもう、風がそよと吹けば散るばかり。一週間前には満開の桜を脇に並べていた高瀬川も、散った花びらが水面を埋め尽くす。
今や風俗街になってしまっている四条高瀬川沿いに、かつての小学校跡がある。
立誠小学校は、平成五年に廃校となった。
この校舎は昭和初期に建てられた、建築遺構である。時代を反映して、アール・デコ流の直線とアーチを用いた簡素でかつ華麗な様式が取られている。現在はどうやら市によって一応は再利用されているようだ。
校舎の脇には、御衣香の桜が咲き始めていた。他の桜が散り行く中で、遅咲きの花をこれから咲かせようとしている。不思議な淡緑色をした花の色は、はかないソメイヨシノとはまるで違った趣き。花は咲き続け、人は生き続ける。今は子供たちの声が消えたこの校舎も、人々のためにもっと積極的に利用してほしいものだ。つぶすなんて、とんでもない。