中国歴史小説「知兵之将」

今、鈴元仁は歴史小説をブログで連載しています。

内容は、二千二百年前(!)の古代中国です。

始皇帝・項羽・劉邦・韓信・張良・虞美人・呂太后、、、

これらの名前にピンと来た方、あるいは、

郡県制・儒教・陰陽思想・法家思想・孫子兵法、、、

こういったことどもにちょっと興味をそそられる方、

よろしければ読んでやってください。

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台北四十八時間 06/06/29AM09:30

(カテゴリ:台北四十八時間

「ウルムチ」の道教寺院



大稻埕(ダーダオチェン)の目抜き通り、迪化街(ディファジェ)に入った。


この通りはまち全体の統一的な雰囲気が取れている。

ところが、この迪化(ディファ)という名前は、はるか西方東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の都市、ウルムチの旧称なのである。東トルキスタンとこの台湾とが何の関係があるのかといえば、両者がともに「中華民国」(台湾を支配する政体の正式名称)の建前上の領土に含まれている、それだけなのだ。もともと戦前には、この街は地元民によって南街,中街,中北街(北段、北街),普願街、そして杜厝街と呼ばれていたという。それが、中華民国政府が台湾に乗り込んできた1947年に、地球の4分の1ほどをすっ飛ばした向こうにあるオアシス都市の名前を頂戴した。

現在でも建前上は、中華民国の領土は大陸全土にまで及んでいる。2002年に台湾政府はようやく「外蒙古」を独立国家「モンゴル国」として認めて中華民国の領土から外したが、それまで中華民国の領土は辛亥革命(1912)時点の中国の領土全てを含むことになっていたのである。だから中華民国政府が台湾とわずかの島々に押し込められた後にも、東は黒龍江省から西は東トルキスタン・チベットまで、建前上は政府の管轄するところだったのである。もちろん実際には台湾省(台湾島と周辺諸島)と福建省(大陸沿岸にいくつか残された民国政府支配の島々)しか行政として機能しておらず、しかも限られた領土内に省政府などは全く無用であって、非能率このうえなかった。1998年にようやく「精省」が行なわれて、省政府は有名無実となった。同時に「省轄市」という自治単位も廃されて、基隆、新竹、台中、嘉義、台南の五市は県に属さず直接中央に属する「市」という単位となった。(中央直属の市には「直轄市」という単位もある。台北・高雄の二市)。このように最近はだんだん建前のメッキもところどころ剥げてきているようであるが、それでも依然として形式上は残っている。

ということで、エキゾチックな名前を戦後新たに冠することになった、この歴史ある一角である。台北の通りの名前は、たいていがこの迪化街のように中国各地の地名をつけたものか、そうでなければ「忠孝」「仁愛」「民権」「民生」などの儒教的徳目あるいは中華民国の国是から取ったものか、あるいは孫文の号である「中山」、蒋介石の号である「中正」である。オアシス都市の名前を付けられたこの通りは、まだマシなほうであったかもしれないのだろうか?



建物の中身をつぶしていた。保存して建て直すのだと思うが。


迪化街は、大稻埕の昔の雰囲気を最も残していると言われる。両側の商店では、乾物や漢方薬をたくさん売っている。旧暦正月前には、ここは買い物客でにぎわうそうだ。通りには、古い様式の建物が多く残されている。政府も保存活動を行なっているようだ。この辺りは、1860年代ごろから始まって日本統治時代に至るまで経済の中心地であった。加えて台湾文化の発信地でもあった。日本統治時代には各種の大衆戯曲がこの地区で上演され、また1921年には「台湾文化協会」が大稻埕で設立された。当時政治的結社が厳しく禁止されていたので、文化活動を行なうことによって人民に台湾人としての自覚を促そうと意図して結成された協会であった。台湾文化協会は1927年に分裂するまで、新聞雑誌の提供、文化講演会の開催、新劇や映画の上演などの活動を行なって台湾人の啓蒙に大いに寄与したという。

大稻埕は艋舺(現在の萬華)に比べて遅く発展が始まったが、やがて繁栄の度合を追い越すようになる。そのきっかけは第二次アヘン戦争(アロー戦争、1856 - 60)の結果締結された天津条約により、台北北西の淡水(タンシュイ)が開港されたところから始まる(1860年開港)。と言っても上流に入った艋舺と大稻埕が、事実上の荷揚げ場であった。だがしばらくすると艋舺は川砂が堆積して舟の航行に適さなくなり、しだいに衰えていった。代って大稻埕が貿易拠点として繁栄を極めることになるのである。

台湾の烏龍茶(青茶)の歴史も、この大稻埕から始まったという。開港後の1865年にイギリス人のジョン・ドッド(杜徳、John Dodd)という人が泉州安溪茶の苗を持ち込み、農民に貸与して栽培させて、収穫した茶葉を買い取って精製する事業を始めた。これこそが、台湾で茶が作られるようになった起源であるという。台湾の烏龍茶は味甘く、西洋で「東方美人茶」(Oriental Beauty)の称号を得て愛好されるようになったのである。大稻埕には茶を商う外国人が商店を構えるようになり、茶市場として市勢が伸びていくようになった。日本統治時代には西洋の茶商は駆逐されてしまったが、茶の交易拠点としての繁栄には変わるところがなかった。淡水河はやがて貿易通路の意義を失ったが、代りに鉄道が走った。台湾巡撫の劉銘伝が鉄道を計画した際に台北駅を大稻埕の南端に設定したのも、大稻埕の経済的意義を考えてのことであったろう。清朝に取って代った日本当局は、市の東南に台湾総督府(現総統府)を打ち立てて、現在の中正区を政治と行政の中心地とした。いっぽうで大稻埕は、台北の経済の中心地であり続けた。迪化街付近には紡績業も勃興し、さらに繁栄を加えたのであった。



小さなほこら。


大稻埕の歴史をずっと見守ってきたのが、この迪化街にある大稻埕霞海城隍廟(ダーダオチェンシャーハイチェンファンミャオ)である。この寺院の縁起は、1853年の「頂下郊拼」に遡る。「頂郊」と呼ばれた三邑人との戦いに敗れた「下郊」と呼ばれた同安人たちは、家屋財産を焼き討ちされて艋舺から追い出された。しかしその中で、彼らが信仰する城隍神像は幸いにも焼け残った。大稻埕に移った同安人たちは、この城隍神像を祀るために、廟を建てることにした。そうして1859年3月18日に落成したのが、この寺院なのである。その縁起からして大変荒っぽい歴史で始まったお宮さんである。日本統治時代、この辺は「永楽町」と改名させられた。アジア太平洋戦争では、空襲があった。戦争が終わった後、街には西方のオアシス都市の名前が付けられるようになった。だが、そんな変遷があったにも関わらず、何とか今でも建っている。このお宮さんがもし大陸にあったならば、おそらく文化大革命のヴァンダリズムvandalismで破壊されていたであろう。いや、物理的に引き倒すことだけがヴァンダリズムではない。伝統的建築の周囲に全く不釣合いなコンクリートで作ったファンシーな建造物を次々と作ることによって、日本の京都の寺社建築は若夫婦の家で片隅に追いやられた隠居爺さんのように、肩身のせまい風景を作っている。だが僻目かもしれないが、このお宮のような道教建築は周囲の武骨なコンクリート建築の中にあっても、きらびやかで結構サマになっているような気がするのだ。私が出会った台北各地の道教寺院は、どれもみな香港のものに比べて非常に精巧に装飾が作られていて、一見して豪華であった。おそらく昔大陸からよほどに腕の立つ職人集団が渡来してきて、伝統を伝えたのであろう。道教寺院のこのようなきらびやかさは、建築を単独で見ると趣味的にどうかなとも思うのであるが、現代アジアの都市の風景の中に置いてみれば、それは十分負けずに老骨の存在感を主張できるパワーを持っているのではないだろうか。たとえるならば、悠久の歳を取っているはずなのに少しも老いることがない、道教の八仙(パーシァン)たちのようなふてぶてしさである。




朝方で、欧巴桑(おばさん)たちが横でのんびりとしていた。


もうひとつ、お宮があった。「普願宮」と言うらしい。小ぶりだが、やはり精巧で華麗に作られている。すでに日は高く、汗が吹き出る。何せ、沖縄本島よりも南にある島だ。お宮の周囲のぼんぼりがよく似合っている。



まあ、日本でも役所がこういう土木事業をよくやっている。


お宮の後ろに回ると、一枚のレリーフが埋め込まれていた。この普願宮の周囲の「歸綏戯曲公園」を整備した旨が民国八十九(2000)年の日付で、現在の台北市長名で書かれている(現在の台北市長とは、国民党党首の馬英九その人である)。この公園では、伝統的戯曲の上演も定期的に行なわれているという。現在台北の中心部は東南の中正区や大安区に移ってしまい、大稻埕ももはや発展から取り残されてしまっている。しかしこのレリーフを見ると、どうやらかつて大陸反攻を唱えていた国民党までもが、今やこの島のかつての伝統の掘り起こしに熱心であるようだ。もっともそうしなければ、デモクラシーの社会では当然生き残れないのであるが。




taipei002.JPG

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