山縣は、「国を守り興すのは武力である」というリアルポリティークを見据えてためらわなかった政治家であった。帝國陸軍は、彼の手で作り上げられた。日清戦争であれほどまでに容易に日本が勝利したのも、山縣が早くから対清戦争を準備して軍備を拡張していたからだ。この無鄰菴では、日露戦争直前に伊藤博文らと談義が持たれて開戦の決定がなされたという。
しかし、長く生き過ぎた。伊藤博文の死後は元老の最大実力者となって、ほとんど大日本帝國の影の執権であった。陸軍と枢密院に息のかかった人物を置いて、内閣の存続に介入した。第二次西園寺内閣と第二次大隈内閣は、山縣の意向により終焉した。軍の長老でありながら政治に介入する彼の姿勢が、山縣を見ていた田中義一以降の陸軍政治家たちに軍・政の混同を当たり前のことと思わせたに違いない。最後は皇室の婚姻問題に口をつっこんで(宮中某重大事件)、結局我意が通らずに上下の憤激だけを買う醜態をさらした。長州藩の「軽輩」(武士の下僕であって、武士とは身分が大きく違う)というみじめな身分に生まれながら、松下村塾に学んで騎兵隊軍監となり高杉晋作らと長州藩の実権を握った。長州征伐で幕府軍と戦闘した頃から、大正デモクラシーの時代まで生きていた。生涯の中で一つの国を壊して、もう一つの国を自分の手で作り上げ、そしてその国が親離れするところまで育ったのを、年老いた親は認めたくなかった。
山縣といい伊東巳代治(1857 - 1934)といい、若い頃は気鋭の政治家であったのが、晩年には政党政治を抑圧するイジワルじいさんになってしまった。日本という国家生命体がもはや彼らを吐き出すべき時期に成長していたのに、生物学的生命体である彼らはまだ生き続けていた。それだけ日本はあまりにも急速に変化しすぎたのだ。その変化が、生物学的生命の一生の範囲内で起ってしまった。山縣や伊東の矛盾はそこにあった。
二条の高瀬川沿いには、山縣のもうひとつの別荘跡がある。
「第二無鄰菴」という碑が建っている。ただし現在は寿司屋チェーンの店舗である。このギャップが、剽軽(ひょうげ)ている。山縣もこうしてようやく笑いの中に埋もれてしまったようだ。