中国歴史小説「知兵之将」

今、鈴元仁は歴史小説をブログで連載しています。

内容は、二千二百年前(!)の古代中国です。

始皇帝・項羽・劉邦・韓信・張良・虞美人・呂太后、、、

これらの名前にピンと来た方、あるいは、

郡県制・儒教・陰陽思想・法家思想・孫子兵法、、、

こういったことどもにちょっと興味をそそられる方、

よろしければ読んでやってください。

もしお気に入れば、ついでにランキング投票も。

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台北四十八時間 06/06/29PM02:30

(カテゴリ:台北四十八時間
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孔廟 - 多謝、多謝、來飮茶!



おねえさん「昔の台北でいちばん大きなお祭りは、ここと、それと芝山岩(しざんがん)だったね。芝山岩にもよく行ったもんだよ。小学生の頃に、生徒みんなで並んで勤労奉仕に行った。」
数時間前に先生と話をしていたとき、先生が「ろくしせんせい」について何度も言及されたが、私は当初何を指しておられるのか、よくわからなかった。先生が字を書いてくれて、やっと思い至った。台北の北、士林(シーリン)にある芝山岩にまつわる歴史的事件について言っておられたのだ。つまり、「六氏先生」なのだ。私はこの事件についてある程度知っていたが、「六氏先生」という言い方は知らなかった。この「六氏先生」と芝山岩については、私は次の日に日本がかつて建てた「六氏先生」を祀る神社である芝山巖祠(しざんがんし)の跡に足を運んだので、その際詳しく書くことにしたい。

戦前の台北には、台湾神社と芝山巖祠があった。いずれも、国家の意向により建立された神道神社である。今はいずれもない。孔廟から川を隔てた北にあった台湾神社は、戦後国民党に接収されて現在は圓山大飯店(ユァンシャンダーファンディアン)が建っている。芝山巖祠は士林集落の横にある険阻な岩山の芝山岩(チーシャンヤン)の上に、すでにあった道教寺院の惠濟宮(フイジーゴン)の裏手に造営された。この岩山が十九世紀の「泉漳械闘」の中で、漳州人が避難するために築いた砦に利用されていたことは以前にも書いたとおりである。今は、惠濟宮だけが残って、芝山巖祠の建物は撤去されている。いずれ詳しく述べるが、ここにはそれでも「六氏先生」にまつわる文物が、私の行った時点では保存されて残っていた。政府の手で記念として保存されているのであるが、それらの消息は、これまで当局の歴史評価により紆余曲折を経てきたし、今も経ているのである。

先生やおねえさんやおねえさんの夫は、戦前の日本による教育を受けた世代であって、大人になってからこの島の住民の構成の激変を体験した、ほとんど最後の人たちである。先生もおねえさんの夫もアカデミズムのキャリアをお持ちで、当然高いレベルの教育を受けておられる。台大歴史実習教師たちの開いている「麻辣教師」というサイトの中に、國中(中学校)の歴史教科書テキスト『認識臺灣』の内容紹介のページがある。その第八章「日本殖民統治時期的教育、學術與社會」の第一節が、「教育と学術の発展」についての叙述である。その内容には、

総督府殖民統治の下、その初期は台湾人の子弟が人文学科を学ぶことを奨励しなかった。しかし公学校(注:台湾統治において台湾人を対象に設立された、日本本土の小学校に相当する教育過程。ただし、カリキュラムは違った)の教師を養成するための師範学校と、医師を養成するための医学校だけは、重点的に育成した。教師と医師は比較的高い社会的地位を得たので、これらの学校は長い間激烈な入学競争が存在していたのである。

高等教育については、医学校を除いては、一九一九年(注:「台湾教育令」が公布されて、以降田健治郎台湾総督の下で台湾の教育制度拡充が図られる)以降農林・工業・商業専科学校と台北帝国大学(現國立臺灣大學)が設立された。しかしながら、台湾人の学生が占める割合は非常に低かった。台湾で進学することが容易でなかったので、台湾人の有志青年は日本留学に勇躍して進んだのである。一九四五年に到るまでに留学した学生の数は二十万人に達し、その中で大学修学生の総数は六万余人にのぼった、内訳は医学生が最も多く、法学、商学経済学がそれに続いた。留学教育は、台湾の高等教育の不足を大いに補強したのである。(第五段~第六段)

とある。もちろん台湾総督府の基本方針は、殖民地として都合のよい人間を育成するのが大目的として完全に存在していた。だから教師・医師(特に台湾はマラリヤなどの風土病根絶が大課題であった)の育成のために重点的に学校を開き、また技術・実業方面についてはある程度奨励した。しかし哲学・文学など人間の心に関わる人文方面の学科には、冷淡であった。また内地の小学校に相当する公学校では日本語学習と社会に順応する道徳を教えるカリキュラムが組まれていて、政治的英雄を顕彰して生徒を鼓舞するような内容は慎重に取り除かれていたという。他方で日本統治時代以前からあった儒教的教育施設については、徐々に窒息させていったという。しかしながら、全体的に見れば日本当局は殖民地として世界的にも異常なほど現地人の教育に力を入れたのであって、「一九四〇年には、学齢児童の入学率は百分の六十に接近した。一九四三年には、正式に義務教育が実施された。一九四五年には、入学率は百分の八十にまで達したのである」(第一段)。

この戦前の教育が、戦後の台湾の経済成長の重要なインフラを作ったことは、ほぼ疑いない。じつに日本人は、イギリス人やフランス人が有色人種を扱った流儀とは比較にならないほど細やかな殖民地経営を行なった。それは、同じような顔をして共通の文化を持っている「現地人」であったから、心情的にも当然のなりゆきであっただろう。だから、当局は彼らが日本人に同化することを期待した。同じように日本語を話し、同じ神々を崇め、同じ祖国を愛して守る心の子弟を育成することを望んだのである。

孔廟にかかわりの深い先生もおねえさんも、日本に基本的に好意的でいてくださる。それは日本人として、大変うれしいと思った。ただ、この孔廟についてなのだが、アジア太平洋戦争に突入した時期に由緒ある「釈奠礼」を勅令により廃止させられ、日本の靖国神社の神楽に変えさせられたと言う(台北市孔廟サイトの説明による)。私は、正直言ってこれはよくないことだったと思う。神道というものは、元々どんな神様であっても人民が崇敬の心を持って祀っていたならばやわらかく包摂するのが、本来の教義ではなかったのか。この廟で地元民に崇敬されている孔子さまが、日本の学問の神様である天神さまとどう違うと言うのか。いつの間に神道は一神教みたいな排他的な宗教にすり変わったのであろうか。普遍性にまで濾過(ろか)されていない地方神を唯一神と宣言して異文化人に崇拝を強要するなどは、古代ローマの狂気の皇帝ヘリオガバルスと同じ所業である。それは必敗の宗教なのだ。この時の日本当局の行為だけは、私は愚かと評するしかない。


それは私の感想として、おねえさんは昔のこの孔廟のあたりの風景についても話してくれた。

おねえさん「だから学校じゃ日本語、家に帰れば福建語(閩南語)だよ。今じゃニーハオニーハオを使うけれど、昔なんかは田んぼで会ったら、『リーチャプンベイ?』なんだ。」
鈴元「うーん、、、『チーファンラマ』(吃飯了嗎?)と同じ意味なんでしょうか?」
おねえさん「んーどう書くの?、、、、これをこう入れ替えて、、、『あなた』の字をつける、、、

リーチャプンベイ
你吃飯嗎?

こうだね。『リーチャパーベイ?』(你吃飽嗎?)もよく使ったな。」
(帰って日本で数少ない台湾語会話本を読んで調べたところ、どうやらそれぞれは「汝吃飯未?」「汝吃飽未?」と書くのが「正しい」らしい。しかしながら、これらの本で書かれていた漢字の表記法が本当に公式に確定されたものであるのかは、よくわからない。)

おねえさん「あたしも昔ボリビアとかに行ったけど、やっぱり現地の言葉ができないと生活はムリだね。ここで一応スペイン語でガイドするけど、十分にわからん。あなたは英語できるんだって?大したもんだ。」
鈴元「いや、ぜんぜんしゃべれませんよ。読めるだけです。」
おねえさん「それがね、福建語使えるとアメリカでは役に立つんだ。福建語で『ありがとう』は、「多い感謝」と書いて、

ドーシャ
多謝!

または、もっと簡単に、
ドーラ
多啦!(この後ろの字は、私の推測です。)

っていうんだ。で、向こうに行って『ドーラ!ドーラ!』って言ったら、『おっ、もう英語をマスターしたのか!"dollar"(ドル)と言うとは』って勘違いされるんだよ!」
鈴元「ははははは。なるほど。で、会ったら『リーチャプンベイ?』で、別れるときは?」
おねえさん「『リーチャプンベイ?』で会って、別れるときには『ライツーリンテー!』で別れる。学校から帰ったら、毎日このあいさつさ。『ライツーリンテー!』っていうのは、『家にお茶飲みに来なさいよ』っていう意味なんだ。だから、 、
ライツーリンテー
來家飮茶!
(こう教えてもらったのだが、さきほどの台湾語会話では「家」を「ツー」とは発音しないようだ。別の字をあてるのかもしれない)
または、略して、
ライリンテー
來飮茶!

だよ。」

英語の"tea"(ティー)、フランス語の"thé"(テ)、ドイツ語の"Tee"(テー)などの西洋語が、福建語の「茶」の輸入語であることは、前から知っていた。今日別れのあいさつで教えてもらった、「來飮茶!」こそは、まさしく十七世紀に台湾にやって来たオランダ人たちもまた、耳で聞いたあいさつ言葉に違いないのだ。西洋各国の「茶」を表す言葉は、オランダ人が現地語を表記した"tee"(テー)に由来するのである。


おねえさん「この孔廟のすぐ隣に、保安宮がある。行ったほうがいいよ。祭りでは、お芝居の踊りなんかもやるんだ。ああいうのではね、演じる役の位の高さによって見た目が変わるんだよ。位が高ければ高いほど、演じる時に足を高く挙げるんだ。それにかぶっている冠の様式も、位と対応しているんだよ。」
鈴元「ほほう。」
おねえさん「それと、今の民権路と松江路との沿いにあるのが、恩主公(おんしゅこう)。地元では『ンゴッスーコン』(このように聞こえた)って言うけどね。よく子供とか連れて行くんだよ。お祈りの人がお線香持って、お参りに来た人から聞いたお願い事を、横をぐるぐる回りながらお祈りするんだ。子供とか、やらせると怖がってね。逃げようとして、こけたらすかさず寄ってきて、周りでぐるぐるお祈り!、、、今は暑いからちょっと人が少ないかもしれないけれどね、、、」


こんな調子で、すぐ帰るつもりがいつの間にか日が傾き始める時間まで長居してしまった。視聴室にあるのは給水機だけで、時々それを飲みながら。目の前のビデオは、もうこれで何度見たであろうか。

このままでいるとずっといてしまいそうなので、何回目かのビデオ上映が終わった時に、思い切って出ることにした。この孔廟で先生やおねえさんに会って、私も台北に来た甲斐があったと感じた。とりあえず、今後の日程で恩主公と六氏先生には行かなければならないと決意した。


鈴元「二日しか日程がないので、ちょっとこれで失礼します、、、ドーラ、ドーラ!ライリンテー!」
おねえさん「ははは、もう覚えたかい。でも、『もし暇があれば』をライリンテーにつけるべきだね!」


『もし暇があれば』の福建語は、残念ながらよく聞き取れなかった。


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