関西出身の私であるが、神戸の「そばめし」という食べ物については成人するまでその存在を知らなかった。同じ兵庫県の名産の明石焼きについては、昭和五十年代にはすでに関西一円で紹介されていたので知っていたのであるが。お好み焼きや焼きそばにご飯と味噌汁が付いて、「お好み焼き定食」「焼きそば定食」とするメニューは、関西ならば昔からどこにでもあった。そばめしはいわば「焼きそば定食」をごはんとあらかじめ混ぜてしまったようなものだから、誰かが考え付いていてもおかしなことではなかったであろう。天ぷらにまでソースをかける関西の土地柄だから、ソース洋食の一バリエーションのそばめしが発生したのも自然ななりゆきであっただろう。
しかしどうして関西人はソースが好きなのであろうか?私の勝手な想像では、これは昭和初期の阪急百貨店ブームが源泉なのではないだろうか。昭和四年(1929年)四月に開業した阪急百貨店の名物は、大レストランのライスカレーであった。ところが開業直後の世界恐慌時になると、一杯25銭のライスカレーが高くて食べられずに5銭の飯にタダのソースをかけて食べて帰る客が続出した。当初店は「ライスだけの客お断り」の張り紙を出した。しかしその事情を聞いた社長の小林一三は、逆の手を打った。「ライスだけのお客様歓迎」の張り紙を出して、さらに福神漬けを付けたのであった。「恐慌などはそう長くは続かない。それよりも、この店により多くの人が親しんでもらうことが大事だ」と判断した上でのことであった。このライスにソースをかけるメニューは「ソーライス」と呼ばれて名物になったのであった。私が思うに、この「ソーライス」が昭和初期に大ヒットしたことが、関西人の中にソースへの愛好癖を決定的に刷り込んだ一因となったのではないだろうか?「芦屋・宝塚・百貨店」のイメージ戦略を繰り広げた昭和初期の阪急の関西文化への影響力は、それは大きなものだったはずだ。そうしていつの間にやら関西人は「天ぷらでも目玉焼きでもソース」の習慣がついてしまったのかもしれない。ソースはまるで日本酒や和食に合わない、言わば子供の味わいである。昭和初期に子供時代を過ごした人たちが、戦後の関西の家庭でもソースへの愛着を維持しつづけたことは、十分に考えられる成り行きではないだろうか?
と、ここまで書きながら、今回私はそばめしにソースを使わなかった、、、
(以下は、1人前の分量)
焼きそば 1玉 |
ごはん 茶わん小1杯 |
にんじん 5cm |
キャベツ 1~2枚 |
豚肉細切れ 50グラム |
しょうゆ 大さじ1、酒 大さじ1、かきソース 大さじ1 |
サラダ油 大さじ1 |
焼きそばの玉は、庖丁を入れて四分割する。
豚肉はこま切れ、キャベツとにんじんは細かい短冊切りに。
ごはんに酒大さじ1としょうゆ大さじ1をまぶして、あらかじめほぐしておく。
フライパンを熱して油を入れ、肉を炒める。肉の色が変わったら野菜を入れる。途中、こしょうを適度にふりかける。
焼きそばを入れて、ほぐしながら炒める。
さきほどの調味料をまぶしておいたごはんを入れて、かきソース大さじ1を加えて混ぜ合わせながら、さらに炒める。
ソースを使った本式そばめしよりも、あっさりした味わい。