昨日、アパートの一部屋飛ばした隣に住んでいた老婆が、遺体で発見された。死後相当日経っていたようで、すでに遺体には蛆がわいていたという。
警察からそう言われてみると、確かに先週末ぐらいから、部屋の前からトイレ臭が出始めるようになっていた。長期間外出してトイレを不潔にしているときに臭う臭気と同じものであったから、不快でありながらも全く気にも止めていなかった。おそらく、それは死後体内に残っていた尿素(体内には老廃物として多量に流通している)が分解されてアンモニアに変成した臭いだったのであろう。警察らが部屋を空けたときの臭気は、隣の部屋にも侵入してくるほどに強烈なものであった。いわゆる「死臭」とは、あのような目を開けてもいられない臭いであるのか。ほとんど顔もあわせたこともない婆さんであったが、全くの孤独死であった。私の住んでいるアパートでは、よく人が死ぬ。以前別の隣に住んでいた老人が孤独死して発見されたし、上の階でも火事があって一人焼死したことがある。これで三人目だ。
夏の盛りにあでやかな花をつけた蓮は、花が散った後には花の中央にあった実の部分だけが肥大化して、このような蓮の実をつけた「秋の蓮」となる。まだ青い葉は秋になると成長が止まり、蓮根を地下で育てるのと入れ替わりに次第に枯れて破れていく。そして晩秋になると、葉も茎も破れ落ちた「敗蓮(やれはす)」となるのである。蓮の水面の姿はこのように夏から秋にかけて花から実へ、そして死へと変化していく。仏教の汚れなき教えの象徴である蓮の花もまた、衰えてしまうのだ。蓮は地下で蓮根が生き続けるし、蓮の実の中の種は数千年の時をへだてて蘇ることすらできる。だが人間は、死んだら全てがおしまいなのであろうか。生き残った人が覚えていてくれる?そんなのは、うそだよ。
秋の蓮の写真を撮ったのは、四条高倉の大行寺。文政四年(1821年)創建と伝えられる、ごく近年から始まった寺である。以前晩秋に通ったときには、寺の門前に見事な大輪の菊が活けられてあった。しかし彼岸過ぎの今日通ったときには、このように蓮の実をつけた秋の蓮であった。これもまた生生流転の花の一つの相である。