昨日(2006年10月6日)は、旧暦八月十五日で「仲秋」。「十五夜」と言えば、特にこの日のことである。中国文化圏では、昨日は「仲秋節」(チョンチュージェ)として大きな祭りの日でもあった。台湾では昨夜は絶好の月見夜空であったというが、あいにくここ日本の京都では低気圧の影響によってほとんど曇り空であった。今日も、朝から細かい雨が降ったりやんだりの肌寒い一日。日は照るとなく陰るとなくの移り変わりがずっと続いていた。
知恩院近くの中華食材店では、月餅(ユェピン)の詰め合わせが売りに出されていた。仲秋節に合わせて日本のお中元さながらに贈答される高級菓子で、大陸では年々贈答の内容が高級化しているので、当局が規制に乗り出しているという(YOMIURI ONLINE関西発『劉さんの中国見聞記』参照)。
もはやそこまで仲秋節を大事にしない現代の日本人であるが、名月の季節であることには変わりがない。今は彼岸をちょうど過ぎた時期。日が暮れると共に東の空から月が出て、夜通しをかけて空を巡り回って、日が明けると共に西の空に沈む。今日10月7日は暦の上では仲秋節の次の日であるが、月齢で言えばちょうど満月に当たるのだ。夕方になると雲が東天にかかってしまい、今日も月の出を見るのはだめだったかと半ばあきらめていた。だがしかし、午後6時50分ごろ、ついに東の夜空は雲が切れて、東山の上に秋の満月が顔を出した。
月齢カレンダーによると、今日の月の出の時刻は京都で午後5時32分。月の出る方角は79度9分で、真東からやや北に偏っている。しかしそのために月の出から約2時間程度経って東山の上に顔を出した頃には、ちょうどうまいぐあいにほぼ真東の位置を月が通り過ぎることとなった(あえて言っておくと、各地の「月の出」とは地平線を想定してそこから月が顔を出す時刻であって、東の方角に山などがあればそこから顔を出す時刻はもっと遅くなる)。東大路通から真東に八坂塔(正式名称は「法観寺」)に向けて伸びる八坂通から塔を見上げれば、このように塔の屋根の上に月がかかることとなった。東日本を大荒れに荒れさせている低気圧の風が上空を吹き流して、雲の動きは非常に速い。
徳川時代以前には、旧暦八月十五日「十五夜」は今よりもっと祝われていた行事であった。十五夜ばかりではない。徳川時代には「月待」(つきまち)と言って、二十三夜(京都など)または二十六夜(江戸)などの満月過ぎの月を見る行事があった。満月を過ぎた月は、月の出がだんだん遅くなる。そこで夜更けまで月の出を待ちながら皆で高台などに登っていろいろ飲食したりするのである。場合によっては月が出てもお開きとはならずに、江戸では正月と七月の二十六夜は徹夜の祝宴であったという。明治時代以前は言うまでもなく太陰暦(正確には閏月を入れて調整する「太陰太陽暦」)であって、月の満ち欠けがそのまま一ヶ月のカレンダーと照応していた。いやでも天上の月に注目せざるをえない。その上、彼岸ごろの満月は日の入りと共に現れて、日の出とともに沈む。まさしく一夜を支配する夜の女王なのだ。昔の人はずっと月に注目して大事にしていたから、十五夜や月待などの行事は、遊びのための絶好の口実となって定着していたのである。
それが明治維新と共に日本は完全に太陽暦に移行して、旧暦の行事はほとんど衰えてしまった。そのため極寒の季節が「新春」の正月となったり、梅雨の真っただ中が星見をする七夕となったりする矛盾が出てしまって、しかもそれが変だとすら思わないようになってしまっている。十五夜はまだ旧暦の日にスーパーで月見だんごが売り出されるだけ、まだましな方だ。これが新暦の8月15日に祝うようになってしまっていたならば、下手すれば月がまったく見えない新月の日に月見をさせられる破目になるかもしれない。さすがにそこまではいかなくて、その代わりに昔の日本に比べて十五夜のお祝いの重要さは生活の中で見る影もなく衰えてしまった。
そんな、時代に取り残されたような十五夜の月夜であるが、これだけ大きな衛星が地球型惑星の周りを回っているというのは、一種の奇跡でもある。月は太陽系の衛星の中でも屈指の大きさを誇る。その重力で地球上に影響を及ぼして、潮の干満や(おそらく)地殻変動をも引き起こしている。もし宇宙のどこかに生命体が住む天体があったとしても、このような夜空を見ることは、そうそうあることではないのではなかろうか?