中国歴史小説「知兵之将」

今、鈴元仁は歴史小説をブログで連載しています。

内容は、二千二百年前(!)の古代中国です。

始皇帝・項羽・劉邦・韓信・張良・虞美人・呂太后、、、

これらの名前にピンと来た方、あるいは、

郡県制・儒教・陰陽思想・法家思想・孫子兵法、、、

こういったことどもにちょっと興味をそそられる方、

よろしければ読んでやってください。

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« 色を変更 | メイン | OL蔡桃桂2007/02/02 »

二流の悲劇役者 - 崇徳天皇御廟

(カテゴリ:半徑半里圖會

祇園にある崇徳天皇御廟の前を通りかかると、いつもは閉じている扉(左)が開いていた(右)。工事の人に聞いてみると、廟内の石垣が古くなったので、これから改修工事にかかるという。施主は、この御廟を管理している今出川の白峯神宮である。


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中に入らせてもらって、写真を撮った。かなり古い塚であることは分かるが、いつのものかは分からない。後で書くが、これは天皇の遺髪を埋葬した塚であるという。

崇徳天皇(1119 - 64)は院政期の天皇である。父親は公式には鳥羽天皇(1103 - 56)であるとされている。ところが、その奥の事情がややこしいというか、ただれている。 実は、崇徳天皇の生母で鳥羽天皇の中宮(側室)であった璋子(しょうこ)は、もともと鳥羽天皇の祖父である白河天皇(1053 - 1129)の愛人であったと言われている。それで、生まれた崇徳天皇のことを鳥羽天皇は「おじご」と呼んで忌み嫌っていた。それが本当ならば、白河天皇(当時は譲位出家して、法皇)の六十過ぎの頃の子供である。精力的と言えば聞こえはいいが、その女をまだ十代の孫と共有する神経はどういうことであろうか。


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それで、白河天皇が生きているうちに「父帝」である鳥羽天皇の後を受けて天皇に即位した崇徳天皇であるが(1123)、白河天皇の死後、「父帝」はこのおじごを排除しようと望むようになる。結果は、異母弟の近衛天皇に譲位させられて上皇となり(1141)、その異母弟が死んだ後には同母の璋子が産んだ同母弟の後白河天皇が後を継ぐこととなる(1155)。いや待てよ、崇徳天皇が白河天皇の子ならば、近衛天皇は彼のおいの子になる。しかし後白河天皇はおいの子であると同時に、間違いなく同母の弟である。異様な家族関係で、付き合ってられん。とにかく、こうして崇徳上皇の血統は、皇位からはじき出されることとなった。


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だが怒りに燃えた崇徳上皇に、藤原家の内紛で関白職を奪われた藤原頼長(1120 - 62)が結託した。彼らは武士の源為義・為朝の親子と、平忠正を動員した。対する後白河方天皇は、平清盛・源義朝の両名を配下に掌握し、ついに保元の乱となる(1156)。結果は先制攻撃をかけた後白河天皇方の圧勝に終わった。源為義・平忠正は死刑、藤原頼長は蟄居閉門、そして崇徳上皇は讃岐国に流罪となった。上皇は京都への帰還の嘆願も受け入れられず、その地で凄まじい怨念を残して息絶えたという。ゆえに、彼の陵墓は讃岐国すなわち香川県にある。 その後、崇徳天皇のたたりが京の都で噂されるようになり、朝廷は恐れて各地に堂舎を建立して鎮魂に努めたという。この祇園の御廟は、天皇の寵姫であった阿波内侍が彼の遺髪を埋葬した塚であると伝承されている。結局、他の堂舎は全て廃絶して、この祇園の塚だけが残っているのである。明治時代になって、崇徳天皇のために今出川の地に白峯神宮が建立された。蹴鞠の神であって、サッカーの選手やファンに人気があるから、知っている人も多いだろう。


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こうやって見ると、確かに崇徳天皇は天皇家の乱れた性関係の犠牲者であって、気の毒な人ではあった。だが、それが武力衝突にまで発展したその背景には、藤原氏の後退によって一時的に天皇家に国家権力が集中した過度的な権力構造が存在した。天皇上皇たちは権力にものを言わせて左京岡崎の地に豪勢な寺院を次々に建立して、やらずぶったくりの栄耀栄華を楽しんだ。富と権力が集まるところには、野心家もまた集まってくる。地位を上昇させたい武家たちもまた、両派に分かれた。派閥争いに武家が絡んだことが、戦争の原因であった。結局院政はこの保元の乱やその後の平治の乱(1159)を境として、全盛期を終える。飼い犬と思っていた武家たちの地位が上昇して、貴族も天皇上皇も圧倒するようになるのだ。平治の乱の後は平清盛が朝廷の官庁を乗っ取って、専制政治を行なう。清盛の死後は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、京都の朝廷は政治の中心からすら外されてしまうのである。 崇徳天皇が生きていた院政の時代、真の実力を持っていた者は、誰であったか。それは、地方に自分たちが開拓した土地を持っていた武家たちであった。その自分の土地から家の子・郎党を動員して武装勢力を結集することのできる、武家たちなのであった。だがまだ彼らがその実力に気付いていなかったから、院政期の天皇上皇は大きな顔ができたのである。それは、日本がアジア的な古代官僚社会が終わって、土地所有者による分権的な封建社会に移行していく時代であった。古代の律令世界と中世の武家世界の間にはさまれた、うたかたの権力闘争の中で沈んだ崇徳天皇は、結局二流の悲劇役者であった。彼の悲劇には、歴史ドラマの悲壮さが欠けている。

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