彼岸ごろの午後は、まだまだつるべ落としのように急いで暮れるまではいかずに、傾く西日が長く続く。ザクロの木には大きな実が成り揃って、見るからに甘酸っぱそうだ。
三条大橋から三条通り(旧東海道)を東に歩いていくと、ほどなく峠に行き当たる。京都七口の一つ、粟田口(あわたぐち)である。京都と東国を結ぶ交通の最も重要な関門であり、当然のことながら昔は関所が置かれていた。源平合戦以来、数多くの合戦の舞台ともなった。
東山三十六峰がいったんこの口で切れる地点であって、九条山のあたりでは道路沿いの左右に山が迫っている。ここを越えると、山科のこじんまりとした小盆地が開けてくる。沿道の山肌には、秋の雑草たち。イタドリ、ツユクサ、イヌタデ、ヤブミョウガ、ネコジャラシ、、、荒地だからろうか、黒い不気味な実を密生させるヨウシュヤマゴボウがいちばん目に付く。
ヘクソカズラ(ヤイトバナ)。
萩の花に一見似ているが、実はアレチヌスビトハギ。カラスノエンドウと同じく、マメ科の植物だ。よく見ると、小さなエンドウマメのさやがところどころから顔を出している。このさやがやがて太って衣服にくっつくようになり、晩秋におなじみの「ひっつき虫」となる。
沿道を土止めしている石垣を見ると、不思議な石碑(?)がはめこまれている。
真ん中の大きい字は、「...王護国...」と読める。
右の字は「...泰平萬(万)民...」、左の字は「...月清月...」と書かれている。
おそらく左の字は、石碑の通常の様式から言って、建立した年月が書かれていたのであろう。
つまり、この石碑は真ん中だけがちょん切られて、この石垣にはめ込まれているのである。
いったい何だろうか、これは???
もう少し歩くと、こんなレリーフがはめこまれてあった。
「旧舗石 車石」。
つまり、この石垣は、アスファルト舗装される前にはこの三条通に敷き詰められていた舗石だったのであろう。あの石碑(?)の残骸も、舗石の一つだったのではないか。
峠を越えて、下り道に入っていく。
すると、謎を解く石碑があった。
石碑の説明文を、書き写しておく。
桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山附近にありました。
この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約一万五千余人にのぼったといわれ千人に一基づつの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。
明治の初めこの刑場が廃止されたのち廃仏毀釈の難にあい供養塔は取り壊され石垣や道路などいろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。
昭和十四年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています。
この碑は日蓮宗のものだが、その向こうには徳川時代の木食(もくじき、自然の草木だけを食べて生きる荒行僧)が建てた「南無阿弥陀仏」の碑の断片もまた、立て直されている。半分に切断されていたようで、その継ぎ跡がある。
おそらくさきほどの石垣の中の石碑の断片もまた、粟田口刑場の供養塔が廃仏毀釈で叩き壊されて舗道の敷石に使われていたものなのであろう。「護国」を標榜する以上は、天台宗か真言宗の石碑であったのだろうか。
古い時代の祈りをすっぱり忘れて、新しい時代の神々に熱中することは、おそらくまた進取の精神と飽くことなき好奇心と表裏一体のものだろう。だから、一面ではそれは日本人の美徳でもある。しかしながら、表面をさらっただけでは見逃してしまうような、人々の奥底に流れる微妙で繊細な優しい心を軽んじて、「時代は変わったんだ!」などとうそぶいてみせる。それで「ご一新」だの「戦後の総決算」だのとお祭り騒ぎを企てて人民を流し去ってしまおうとする性根ならば、荒っぽい昔の時代はともあれ今の時代にはなんとも危ない危ない。