番外篇‧比上不足←漫畫(まんが)ページへ
ポスターの「凍蒜!」(ドンシュアン!)というのは別に凍ったニンニクのことではなくて、「当選!」をふざけて書き換えたもじりだ。先の総統選で流行った用語らしい。支持者(と、たぶんサクラたち)が声を合わせて「当選!当選!」と叫んでヨイショ合戦をする。日本では立候補者が絶叫して有権者は知らんぷりな風景がふつうだが、台湾のデモクラシーはむしろアメリカっぽい。
ところで、大陸では香取慎吾主演の映画『西遊記』が原作を侮辱していると言ってブロガーたちが大憤激しているとか(記事)。一番彼らを怒らせているのは、三蔵法師を女性が演じているところが中国文化への挑発に解釈されているようだ。まあ彼らが怒るのは、わからなくもない。しかし、それで日本の作り手書き手の側が現地に理解されるように気を使う必要は、特にないと考える。
たとえば『ドン・キホーテ』のミュージカルやドラマの脚本に対してスペイン人が「スペイン社会の実情から外れている!」と言って憤激するのは、理解できることだ。しかし、『ドン・キホーテ』は民族を超えた古典だからこそ、色々な解釈が付け加えられて当然の運命にある作品なのだ。優れたエンターテイメント小説であり人類共有の古典である『西遊記』もまた、同じことだ。日本流の『西遊記』の解釈がよりエンターテイメントとして優れているならば、それは生き残っていくはずだろう。留保しておかなければならない点は、宗教的な崇敬の対象に対してパロディ化したり奇抜な解釈をすることは、他文化の者としても一定は控えなければならない重大な侮辱となりうる。しかし、『西遊記』はそれに当たるであろうか。判断の問題、線引きの問題であるが、私は『ドン・キホーテ』と同様それに当たらない、自由な解釈が許されてよい文学作品だと考える。裏返して日本の例で言えば、外国の作り手が『源氏物語』をエロ小説としてポルノ的に脚色したり(実際あれはエロ小説だ)しても、それは許されなくてはならない。
私も古代中国の歴史小説を書こうと準備している最中だが、原作の国での歴史上の人物たちの評価などは無視して書くつもりだ。歴史についても現代史は別として、他文化の者による批判的な解釈は許されるものだと判断する。