ふと振り返ったとき、思わず写真に撮りたくなる風景に出くわすことがある。
これは青蓮院横の粟田小学校前で撮った、夕暮れの風景の写真である。
何ということはない、洛東の情景である。向こうに東山が見える。日本の街並みにはおなじみの、電柱と信号機がある。少し歴史を感じさせる、古い倉などが見える。道の奥の粟田神社を示す、看板がある。一応京都を感じさせる小道具が写っているが、ただそれだけである。名所など何もない。
ただ、こうやって写真を眺め直して、言えることは― この風景には、挟雑物がない。最も新手の文物は、アスファルトに電柱と信号で終わっている。昭和半ばに現れた風景から、前に進んでいない。あえて言えば、それがこの風景で非凡なところなのかもしれない。この風景には、昭和末年から日本中の街並みに無限に増殖した、プラスチックの感触がするコンビニ風色彩が侵入していないのだ。
日本人の日常風景を今や一色に塗りつぶしているのは、きっとコンビニの中のそれである。コンビニの中に入れば、最も清潔な色彩の店内が全国一律の規格で歓迎してくれる。陳列された商品は、データを集めて慎重にマーケッティングされた売れ筋商品ばかりである。それどころか地方ごとの特色や特産品ですら、きめの細かい商品管理によって地方ごとにアレンジされて店頭を飾っている。このように最も清潔で、かつ最も多様な世界がコンビニの中には展開されているのだ。この魅力に、誰が抗うことができようか。日本人の心は、今やコンビニの風景に完全に征服されている。
だが、コンビニは閉じられた世界である。閉じられた中だけで、綺麗で楽しい世界が作られている。それは、アキバ、カラオケBOX、ソープランドと同じ世界である。くしくも現代の日本が異常発達させているこれらの世界は、全て閉じられた中だけが綺麗で楽しい世界なのだ。その欠点は― 外の世界を見ないことだ。これらの世界は、一歩外に踏み出した風景と、決して調和することはない。
この洛東の一風景は、辛うじて現代日本の日常であるコンビニ=アキバ=カラオケBOX=ソープランドの風景から免れていた。だから、被写体になりえる風景であった。ただそれだけだ。このような風景が珍しくなったこの国は、何とグロテスクに進化してしまったのであろうか、と立ち止まって思う。