雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。
古館(訳者注:1678年まで使われた、豆毛浦倭館)の時分までは、朝鮮の乱後の余威がありましたので、朝鮮人に無理をもって押し付ける式で、訳官たちは己の身の難儀の余り、中間(ちゅうげん。下僕)に都の首尾をよろしく取り繕って、成り難いことも成るように運ぶことも、できました。これゆえ、「強根ヲ以ッテ勝ヲ取ル」道を、朝鮮を制御する良策であると、人々は心得たものでした。
新館(訳者注:1678年に開かれた、草梁倭館)ができて以降は、余威もだんだん薄くなって、無体に勝を取ることが難しい勢いになったのですが、余威が薄くなったのだという点を(日本側は)理解することができず、こっち側のやり方がまずかったから(交渉がうまくいかないのだ)とばかり、思い込みました。
竹嶋一件(すなわち、1693年に始まる、鬱陵島紛争のこと)までは、威力恐喝をもって勝を取るべしとの趣きでございましたが、七年を経ても目的を達することができず、かえってご外聞に傷が付くように、相成りました。それゆえ、ここ三十年来は、上のような風をやめて、その結果以降は平穏無事となっているのでございます。しかし、朝鮮人の才知たるもの、日本人の及ぶところではありませんので、今後ご対策が不十分でございますと、「世話になった誰それの木刀」(訳者注:木刀を振り回しても実戦には役に立たない、という意味であろうか?)という次第で、あちらこちらでやり込められる恐れがございますので、この点をよくよく心を用いるべきでございます。
四、五十年前には、日本人が刀を抜けば、朝鮮人は恐懼逃奔いたしました。ところがここ十四、五年には、(倭館から)こちら側が炭薪を取りに参っただけの者どもを、朝鮮の軍官の一人が刀を抜いて追い散らしたこともあったほどでした。「霜ヲ履(ふ)ンデ氷ノ堅キニ至ル」と申すように、今や有智の人は渡海を考え直すべきという風にまで、なっております。
訳中にある「竹嶋一件」でいう「竹嶋」とは、当時の地名においては現在のリアンクール・ロックス(日本名竹島、韓国名独島)ではない。これは、鬱陵島(ウルルンド)のことだ。李朝の漁民
安龍福(アン・ヨンブッ、生没年不詳)の活躍(?)の結果として、日本は李朝との紛争の結果、鬱陵島への日本漁民の渡海を禁止した。以降、鬱陵島は李朝領として確定している。だがこのとき、リアンクール・ロックス(当時日本はこの島を「松嶋」と呼んでいた)の李朝領有まで幕府が認めていたのかどうかは、極めて微妙な問題である。
現在に至るまでの紛争の種をまいた張本人、安龍福は一介の漁民であった。農本主義の李朝においては、漁民は賤民(チョンミン)である。彼はどうやら日本語が理解できたようであるが、日本語も朝鮮語も、書くことができなかったという。もっとも、この場合彼が書けなかったのは漢字(ハンジャ)であるはずで、民衆のための文字である諺文すなわちハングルが書けなかったかどうかは、よくわからない。
ともかく、目に一丁字もない男でありながら、彼は大した冒険者であった。二度目の日本渡海においては、漢字を書ける僧侶を道中で冒険に誘い、李朝の官のふりをして日本国に乗り込んだ。一度目の渡海で、密航者であるにも関わらず酒などふるまわれてずいぶんと丁重な取り扱いを日本側から受けて、味をしめたとも考えられるが、、、
彼の目的は、どうやら鬱陵島及び「于山島」の領有を、日本に認めさせるものであったようだ。だが、この二度目の渡海の時点ですでに幕府は鬱陵島への漁民の渡航を禁じていた。彼はそれを知らぬ立場にあったのであるが、このとき所在不明の「于山島」まで李朝領であると彼が日本側に主張したことが、現在の領土問題をややこしいことにしている。韓国側は、「于山島」とはリアンクール・ロックスであると、主張している。日本側は、安龍福の勘違いあるいは虚言であると、主張している。
現代の問題は、さておいて。
日本は、安龍福という一漁民によって、手玉に取られたようなものだ。彼は日本当局の前に出ては、虚言を弄して言い繕うことを常としたようであるが、外国にまで出向いて単身渡り合う度胸だけは一流のものであった。安龍福は結局日本から李朝に送還されて、その後の消息は分からないが、彼のおかげで日本は鬱陵島を失い、その上リアンクール・ロックスの領有権すら、脅かされる結果となっている。
芳洲も上に言っているように、半島の民の才知は、日本人の及ぶところではなかった。昔ならば刀で脅せば相手も怖がり、それが日本側に有利な交渉条件を作らせていたものだが、今やすっかり友好ムードが高まって日本側も軟弱になった結果、かえって半島人の才覚と度胸に、日本側がたじたじとなる始末。芳洲は、日本側に彼らと渡り合う準備が足りないことを、憂慮しているのである。
古来より、朝鮮の書物に「敵国」という言葉がございますが、ここでいう「敵国」とは、対礼の国(訳者注:対等の礼儀で交際するべき国)と申す字義なのであることを、(わが国は)ご存知ありません。これほどまでに誠信をもって友好関係を結んでいるのに、朝鮮においてはかつての旧怨をいまだ忘れず、日本を「かたき国」と書いているのだと、合点しています。
また、お国(対馬藩)が朝鮮のために日本の海賊を掃討している件を文書に書き記す際には、(朝鮮側が)「対馬は朝鮮の藩屏である」と記載しているところに、「藩屏と申す言葉は、家来が主人に対して言上するときの言葉である!」とよく考えもせずに添え書きする者が、ございます。こういった件は、我らのような粗学の者どもには、いまだもって免れ難い弊害であります。
文字を読んでも文意を読解できない者は、了見もそれ相応の程度しか持てないものでございまして、とにかくお国の義はかの国とははなはだ違うのでありますので、学問才力の優れた人物をお抱えになられないと、どんなに心を尽したところで、隣国友好の筋は立ちがたいであろうと、存じます。学力のある人物をお取立てになられることは、切要のことでございます。
雨森芳洲は、当時の東北アジアの外交用語が、儒教思想に基づいた漢文用語であることを、知っていた。それを知らない日本が、文字面だけをとらまえて怒って反論するのは、日本の無学無見識である。日本人は、漢字が読めるくせに、漢字で表された文明の常識を、知らなかったのだ。
一八六九年、日本の明治政府は、二百五十年の慣習を転覆させて、李朝に「皇」「勅」「大日本」の語を用いた書契を送付した。世に言う、書契問題である。李朝がその書契の文字に困惑して、受け取りを拒否したことは、単に旧弊に固執した李朝政府の頑迷固陋だけが、問題なのではない。
李朝の外交政策は、華夷秩序の国際法に準拠していた。
すなわち中華帝国を兄として事(つか)え、その他の夷国に対しては対等の礼をもって交隣する。それは西洋の国際法とは異質であったが、首尾一貫した体系であった。
もし日本一国に対してこれを破れば、李朝の外交政策は全て一変させなければならなかった。外交政策を一変させることは、さらに儒教に基づいた法が支配する国内秩序もまた、変化を余儀なくされる。それほどに重大な問題であることを、この時の明治政府が理解していた様子は、見られない。日本では単なる文字の形式に固執した当時の李朝政府の魯鈍さを嘲笑する評価が、出版された著作においてすらしばしば見られる。だが、その評価は誤りである。
対馬藩は、かつて李朝から米を支給されていた。対馬は住民を食わせるだけの米が取れないので、李朝に乞うて毎年米の給付を受けていたのだ。これが、李朝から見れば、藩屏として解釈された。事実関係として、対馬藩はずっと幕府と李朝の両方に、仕えていたと見なしてもよい。
その事実を理解せずに、藩屏とは何ごとだと怒るのは、現実をよく見ない主張である。李朝は、対馬藩に対して何の隷属関係も要求していないし、藩の重荷となるような課役も義務付けていない。それどころか、李朝は対馬藩に釜山の倭館にて貿易を認めさせて、対馬藩はその上がりでずいぶん儲けてさえいたのであった。
芳洲は、隣国と誤解なき友好関係を打ち立てるために、仕える対馬藩に対して、漢学をよく学んだ才人をもっと採用するように、提言した。相手の立場を知らず、外交の常識を知らない無学者は、外交を行なう資格はない。日本流のツーカーな空気で分かり合える相手は、日本列島を一歩踏み出したら、いないと心得なければならない。
もちろん、二十一世紀の現在、東北アジアの外交用語は、すでに漢文でも儒教思想でもない。
しかし、隣国と友好関係を打ち立てるためには、政府と外交官は無学無見識であってはならないことは、今でも全く通じる義ではないか。
ありていに言えば、現在の日本外交は、隣国から見透かされている。現在の日本にとって一番大事で、唯一大事なのは、アメリカとの関係だけだ。日本は、隣国の経済を必要としている限りで、ちょっとだけ謝ったり友好のそぶりを見せたりする。しかし、少しも本気でないことを、彼らは見透かしている。だから信用できず、ゆえに相手はいくらでも批判するし、難題をふっかけるのだ。それを恩知らずとか無礼だとか怒るのは、自分たちの隣国に対する礼儀が慇懃無礼そのものであることに、思いを馳せるとよい。