北陸で大地震があった。犠牲者が出たことは、誠に痛ましいことである。しかし田舎の地域を直撃した地震は、これからの復興がますます難しくなるだろう。今、日本の地方は体力を消耗している。地震が地方にとって今の被害と長期的な衰微の二重の災いとならないことを、祈るばかりだ。
地震では、古い寺院や家屋が集中して倒壊していた。この京都も、ひとたび大地震が来れば寺社の多くが壊滅するかもしれない。京都は非常に長い間、大地震による被害に見舞われていない。だから戦乱が終わった徳川時代以降は建物がよく保存されている(近年起った最大の破壊は、幕末の蛤御門の変による長州対幕府の戦闘による焼き討ちである。これによって鴨川以西の京都市中は壊滅した)。
だが、この日本で地震の脅威から免れている土地など、どこにもないのだ。現に、東山から比叡山地に向けて、活断層が走っている。
そんな憂いの中、今日気象庁によって京都市内での桜の開花宣言が出た。すでに、早咲きの桜はあちこちで開花している。写真は、知恩院の塔頭(たっちゅう。脇寺)の、保徳院の桜。
平安神宮前を流れる疏水のほとりも、桜並木が見事である。
今は、まだ咲いていない。しかしつぼみが赤くふくらんで、はちきれるようだ。これからあっという間に、満開となるだろう。背後の柳はすでに青めいて、春の装いとなった。
桜の季節が、やって来た。
いや、やって来てしまったと、言うべきか。
満開ともなれば、花の景色を見ることは、それから一週間も続かない。
ちるはさくら落つるは花のゆふべ哉(安永九・二・十五)
蕪村の桜の句ならば、私としては、まずはこのうたを。
手まくらの夢はかざしの桜哉(安永二・一・二七)
桜の季節は、一瞬の夢である。酒でも手にしながら、川を見に行こうか。
この三月末には、私鉄二社が廃線となった。
今や、人口の停滞によって新線が建設されるのは、ほとんど東京圏だけとなってしまった。隠れ鉄道マニアの私としては、淋しい時代となってしまった。
だがこのインクラインは、すでに廃線となってから五十年以上が経過している。線路の上を車両が走ることは、すでに絶えて久しい。今は線路だけが残されて、花の下に休んでいる。
明治時代の琵琶湖疏水建設事業の一環として、台車に舟を載せて高地まで引っ張り上げることを目的として敷設された。滋賀県と京都府との間には、比叡山塊が延びていて交通の難所となっている。その利便を図るために、疏水とインクラインを使って舟運のルートを開通させたのであった。
だが舟運の意義は、鉄道と自動車によって意義を失った。それで、順当に廃線となった。しかし、市街地を走る鉄道ではない特殊な路線であったから、更地にされることもなく残された。元はこの横の路面を走っていた京阪京津線は、地下鉄の開通によって廃されて、今や跡形もない。
建仁寺は、祇園発祥の寺。この寺は日本で初めて茶の栽培を始めた寺として有名であるが、その茶園があった境内が、後世に祇園の茶店となった。東洋では茶店、西洋ではカフェが都市の中でまず社交の場として花開いた。茶とコーヒーという代表的な嗜好品を巡って、人が集まってくるのであった。だが社交の場であるから、やがてあっちの関係の遊びをさせる店もまた、混入してくる。そうやって、東でも西でも自然に歓楽街が形成されていったのだ。ちょっといかがわしくてなおかつ快い刺激こそが、かつての茶店やカフェの持つ磁力であった。現在ではすでにこのような場は、インターネットの世界に移っているのであろうか?
今は静かな寺の門前も、春になれば辻に花が咲きこぼれる。こればかりは、道行く人を見返らせずにはいられない。それほどに、桜は刺激的で官能的な花である。
比待(ころまち)得たる桜狩り、比待得たる桜狩り、山路の春に急がむ。
謡曲『西行桜』は、全文が名文。京都市中の桜の名所が、謡(うたい)の中に色々と出てくる。
上なる黒谷下河原、昔遍昭僧正の、憂き世を厭ひし花頂山、鷲の御山の花の色、枯れにし鶴の林迄、思ひ知られてあはれなり、清水寺の地主の花、松吹風の音羽山、爰はまた嵐山、戸無瀬に落つる、瀧津波までも、花は大井河、井堰に雪やかかるらん。
ここ清水寺に、境内にある地主神社、音羽山の桜もまた、謡曲の作られた室町時代当時からの桜の名所であった。
埋木(うもれぎ)の人知れぬ身と沈め共、心の花は残りけるぞや、花見んと、群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の、咎にはありける。
西行法師が隠棲する、西山の庵室の桜を見ようと見物の客がひきもきらない。修行のさまたげとなることを嘆じた法師が、上の歌を歌った - 花を見ようと群れて人が来ることだけが、惜しや桜の咎ではないか - 。その夜、法師の夢枕に桜の老木の精が現れて、法師の歌を難じる。どうして非情無心の草木に、憂き世の咎がありましょうか。それでも桜の精は今宵法師と会合できたことを喜び、やがて夜が明け夢が覚めていくことを惜しみつつ、幽玄に消えていくのである。
夢は覚めにけり、夢は覚めにけり、嵐も雪も散り敷くや、花を踏(ふん)では、同じく惜しむ少年の、春の夜は明けにけりや、翁さびて跡もなし、翁さびて跡もなし。
しかし、この清水寺は桜の名所であると共に、紅葉の名所でもある。桜の花の陰では、楓の若葉が今にも萌え出し始めている。花は散っても、ここは新緑に包まれるであろう。いかで夢ぞ覚めんや。いかで夢ぞ覚めんや。
ここは、京都女子大前。
キャンパスを左右に控える通りも、花のトンネルと化していた。
大学のみならず、どこの学校でもたいてい一本ぐらいは桜の木が植えてある。入学式・始業式のシーズンに合わせて、新しい学校生活を始める諸君に、満開の花を披露することになるのだ。私個人は新学期のシーズンで心躍った記憶があまりないのだが、、、個人的経験は、この際置いておこう。
学校の桜は全国どこでも見られるものなので、私はあえて被写体としていない。
だが、このキャンパス通りは、その向こうにも桜がある。
東山、阿弥陀ヶ峰の頂には豊臣秀吉の墓所がある。
彼の死後、墓所の麓には壮大な豊国社が建立された。
しかし、家康はこの神社の存在を許さず、北政所の嘆願を無視して徹底的に破壊した。それで、徳川時代を通じてその遺構は全く消えた。
しかし、徳川幕府の終焉と共に、明治時代になって豊国神社が方広寺の敷地内に再建された。この秀吉の墓所も整備されて、社殿がしつらえられている。社殿の背後に控える阿弥陀ヶ峰には、頂上に秀吉のための五輪塔がある。以前に一度登ったが、ひたすら続く石の階段が長大であった。真夏の最中であったので、ひたすら汗が吹き出た。
灯篭には、豊臣家の桐紋がある。その周りにも、桜が巡っている。
だが本物の桐の花の季節は、桜が散ってから間もなくやって来るだろう。
花の盛りは、過ぎた。
今はもう、風がそよと吹けば散るばかり。一週間前には満開の桜を脇に並べていた高瀬川も、散った花びらが水面を埋め尽くす。
今や風俗街になってしまっている四条高瀬川沿いに、かつての小学校跡がある。
立誠小学校は、平成五年に廃校となった。
この校舎は昭和初期に建てられた、建築遺構である。時代を反映して、アール・デコ流の直線とアーチを用いた簡素でかつ華麗な様式が取られている。現在はどうやら市によって一応は再利用されているようだ。
校舎の脇には、御衣香の桜が咲き始めていた。他の桜が散り行く中で、遅咲きの花をこれから咲かせようとしている。不思議な淡緑色をした花の色は、はかないソメイヨシノとはまるで違った趣き。花は咲き続け、人は生き続ける。今は子供たちの声が消えたこの校舎も、人々のためにもっと積極的に利用してほしいものだ。つぶすなんて、とんでもない。
山ざくら 世を儚みても 散るは散る
Vermouth&Gin
一日が宙に浮いてしまった、満開の日曜日。
京都は、どこにいっても桜、桜。
試しに写真を撮れば、もう全てが被写体になってしまう。
高瀬川の葉桜など半刻見れば飽きるが、この一週間だけは、一瞬が万金となる。
当今洛邑鐡車喧
千里行來角逐轅
柳橋桃桜招遠客
弥空過數一軒軒当今洛邑、鉄車喧(かまびす)し
千里を行き来して 轅(ながえ)を角逐す
柳橋、桃桜、遠客を招くも
弥(いよいよ)空しく過ごし、数えるは一軒軒
京都、円山のお宿、「吉水」。
東山三十六峰の麓に位置する、洛東の奥座敷。
奥座敷と言いましても、円山公園から歩いて数分である。
山と河が渾然一体となる、美(うま)し里の京都ならではの、立地である。
書斎のような、部屋の中。
書き物をするに、まことに結構である。
TVがないのは、TVを観ない私にとって理想的な環境であるが、ただしインターネットがワイヤレスで、特殊なデバイスをノートパソコンに付けていないと接続できないのには、困った。
夜、行政書士の夕映舎氏と、ワイン一瓶を片手に、夜桜見物に出る。
旅館の前にも、桜の木々。
私は、懐から俳句帳を、出した。
「-詠まんか?」
私は彼に紙を渡して、一句を出した。
花煙幕 奥には遠くの おぼろ月
Vermouth&Gin
夕映舎氏は、コップ片手に小考した後、私に見せた。
遠い地鳴りのような嬌声 ソメイヨシノの 幹に浸み入る
夕映舎
山の下から、花見客の歓声が聞こえてくる。
夜通しとはいわないまでも、巷の夜桜の会は、始まったばかりだ。
こんなふうに、私は夕映舎氏と、ゆくゆく歌を詠みながら、下に歩いていった。
白ぶどう酒と桜 嘗めて 飽くなき自我像 かたどる
夕映舎-西行を想ふ-
人騒がす 咎つくっても 夜は桜
Vermouth&Ginブルウシート 花の夜に咲く 不調法さよ
夕映舎交尾の春 変わらぬさざめきに 日の丸の影
夕映舎
長楽館。
日本のタバコ産業の草分け的存在である村井吉兵衛の屋敷であり、明治建築である。
長楽館という名は、伊藤博文の命名。
-長楽館-
近代を 忘れるべきか 酣の春に
Vermouth&Ginきらら電飾 桜と競うかな 長楽館
夕映舎美というもの 私なの?決められたものなの? 長楽館のかげ
夕映舎
大枝垂桜。
ただし、この桜は何代目かである。
以前の桜はもっと大振りであったが、残念ながら枯れてしまった。
新世代の枝垂桜は、これからもっと元気となるのだろうか。それとも、これが精一杯なのであろうか。いずれ、時の経過が、生命のなりゆきを示すことになるだろう。
格好よく 生きるのは難(むずか)し この花の前で
Vermouth&Gin
かがり火が、夜桜の合間に焚かれていた。
火は、人間の本能に、直接訴えかける。
瞬一秒 同じ刻なし 桜刻
Vermouth&Gin先代よりも きまじめなのかな かがり火の 煙にけぶる 円山桜
夕映舎かがり火と 酔う枝垂桜 龍馬像
夕映舎
脇に龍馬と中岡慎太郎の銅像があったので、詠まれた句である。
茶店で、私は燗酒をあおり、夕映舎氏はきつねうどんを食べた。
「-うまい!」
すき腹にだし味を流し込んだ夕映舎氏は、うなった。
「だし味が分かるなんて、日本人と韓国人だけだぜ。」
私は、茶店から眼下に広がる桜の絨毯の、向こう側の闇を眺めて、詠んだ。
西北西 桜花(ポッコッ)の向こうに 都あり
Vermouth&Gin
最後は、韓流趣味の俳句で、閉めることにしよう。
「都」はソウルと読んでもいいし、「みやこ」と読んでもよい。
眼下にひろがるのは「みやこ」だし、その向こうの空を突っ切った先には、韓国六百年の首都がある。
大浦洞ミサイル、、、?経済制裁、、、?
せめて今夜だけは、この気分を害させるなよ。
朝。
冷気の中に、甲高いとまで形容してよいほどのウグイスの声が、宿での目覚ましとなった。
「ほう、おはよう」と 鶯が呼ぶ 出がらし茶
朝食。
野菜スープ、ヨーグルト、トースト、バター、マーマレード、ゆで卵。
卵の半熟の具合が、よい。
マーマレードは、手製だ。
私は、紅茶を飲んで一服した後、一句詠んだ。
宸鶯が 吉き水誘う 華頂麓
Vermouth&Gin
インターネットで調べることができず、「あかつき」のかんむりが「ウ」だったか、「日」だったか、ど忘れしてしまった。
ここは、東山三十六峰の一、華頂山のふもと。華頂山とは、知恩院の山号でもある。
あかつきに聞いたウグイスの声と重ねて、漢字趣味的に詠んだ。おなじあかつきを表す字である「暁」は、ギョウと読んで、音が悪い。それでシンの字を、あえて用いた。
俳句帳に書き記して、食堂を切り盛りしている、若いホテルの社員さんに、渡した。
しかし、後で家に帰って調べてみると、あかつきを表すシンの字は、「晨」の方であった。「宸」はみかどの意味であって、あかつきとは関係がない。
ここが古都の宿である以上は、「宸鶯」でもあながち間違っていないかもしれない。
みかどは今東京にいるが、鶯を愛でたであろう歴代のみかどの面影は、東山の巷にいっぱい残っているのだ。私の目を覚ました鶯たちは、いにしえの公達たちと遊んだ鳥たちの子孫であるに、違いなかろうよ。
だから、これはこれとして、宿に贈ったうたとして、止め置く。
この文章には、別に修正したものを、併記する。
晨鶯が 吉き水誘う 華頂麓
Vermouth&Gin
9時半に、宿を出た。
宿の前の亭(あずまや)に座って、ギターの練習なとする。
本当に四周全てが、花盛り。
昼には鶯の声が、重なり合う。
夜には梟が、静かに歌う。
こんな環境は、日本広し、いやさ世界広しといえども、そうまたとありません。
亭に座った、女性が一人。
聞けば、宇都宮から24日間京都に長期滞在している、最中でいらっしゃるとか。
私は、残り少なくなった俳句帳を取り出して、一句贈った。
亭の上 見ても晴れても花ばかり
Vermouth&Gin
本当は、彼女に贈った句は「桜ばかり」だったのであるが、この情景は字あまりなしで綺麗にまとめたほうがよい。そう思って、上のように修正することに、しよう。
『圓山花宴曲』