朴景利『金薬局の娘たち』
朴景利(パク・キョンイ)の中篇小説『金薬局の娘たち』を読了。冬樹社『現代韓国文学選集』の訳で、読んだ。このシリーズにおいては編集委員の名が連名で記されているだけで、訳者の個人名は記載されていない。
読後の、感想。
骨が見える、物語だ。
長編小説といってよい分量の物語であるが、結末を導くための人物配置、事件の絡ませ方に関する筋立てが、はっきりと見える。それは、小説を書くことを試みてみた私の経験から言っても、物書きとしては事前に用意するのは、当たり前だ。そして、それに対するディテールの描写が、長い物語のよしあしを決める決定的要素であることも、小説を中途であるが試みた私には、分かるのだ。
この小説は、だがディテールが残念ながら薄い。読後に、そう思った。
物語はタイトルが示すように、裕福な金薬局の家に生まれた五人の娘の事件を描いている。
だが、この物語は、彼女たちのうちいったい誰を、真に描きたかったのか。
次女の、容斌(ヨンム)なのか。
三女の、容蘭(ヨンラン)なのか。
それとも、長女の容淑(ヨンス)、はたまた四女の容玉(ヨンオク)なのか。
これら全てに焦点を当てようと作者が思うならば、これだけの長さではとても足りない。
『カラマーゾフ』の巨大さが、必要だ。
しかし、金薬局の娘たちには、ドミートリー、イヴァン、アレクセイの三兄弟のような、人間としてのスケールの大きさがない。だから、印象を積み重ねる、中編小説のスタイルで描くより、他はない。キリスト教、仏教、土俗宗教、そして反日独立運動が、ディテール描写の素材として用いられている。しかし、ドストエフスキー小説に見られるような、思想の徹底した掘り下げは、この小説が試みるものではない。時折出てくる思想に対する描写は、生煮えに終わっている。美味しく頂けない。
だから、この分量ならば、モーパッサンやフォースターのように、特定の人間に焦点を絞って、ディテールを積み上げたほうが、小説として成功したのではないか。それを、あっちこっちで不幸な事件を勃発させて、悲劇を作り出そうと試みるものであるから、読後感が消化不良に襲われてならない。たとえは悪いが、まるでサドの『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』を読んだ後の味気なさのようだ。サドの小説の狙いは皮肉な笑いであるが、この『金薬局』は悲劇を目指しているはずだから、味気なさが読後感となっては、困る。
各民族には、得意な物語のジャンルがある。
思想を徹底的に突き詰める深刻さがあるロシアやドイツの小説は、大長編が最も素晴らしい。
生活を愛しながら、ディテールを積み上げて人間の悲喜劇を作りあげることが得意なイギリス人とフランス人は、中篇小説に最大の持ち味がある。
日本人は、思想的深刻さとは無縁であるうえに、あまり人生を楽しんでいない。ゆえに、風の一瞬のそよぎや、石の上に差した一条の光に、あわれなる情緒を感じて描く、俳句が優れている。小説ならば、短編小説だ。日本人の物語は、長くなれば長くなるほど、質が落ちる。
韓国人も、そうなのではないだろうか。
私は、韓国文学の短編は、これまで読んで大変に面白いと思った。
しかし、長編を読むことを試みた現在、日本と同じく何かが足りないと、感じた。
思想的深刻さ、それから人生をまるごと愛するまなざしが、日本人以上に韓国人に、あるのだろうか。
私は、韓国人の物書きもまた、その持ち味は一瞬の情緒を描く、詩あるいは短編にあるのではないだろうかと、現在予感している。