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寛永十六年の墓誌銘 - 黒谷

(カテゴリ:半徑半里圖會

黒谷・金戒光明寺の敷地には、広大な墓所が広がっている。徳川時代の古い墓も数多くある。幕末、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり、1835 - 1893)は京都守護職に任命されて、要害の地でもあるこの黒谷に本拠を置いた。藩主に付き従った千名の士たちの何人かが、あるいは戦いの中で、あるいは病に倒れてこの京都で命を落とした。彼ら会津殉難者たちの墓もまた、この寺の敷地内にある。


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徳川時代初期の儒者、山崎闇斎(1618-82)の墓もこの地にひっそりとある。

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同じ様式で作られた大きな墓誌銘がそっちこっちにいくつかあった。その一つには、

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「石川朝臣吉信公墓誌銘」

とある。

この墓誌銘の主について調べてみると、石川吉信(1581 - 1607)とは徳川家康四男で尾張清洲藩主の松平忠吉(1580 - 1607)の家臣であった。忠吉が江戸で病死すると、他の近臣たちと共に殉死の道を選んだのである。浄土宗は徳川家とつながりが強かったから、この黒谷に徳川一族の忠臣の墓誌銘が建立されているのであろう。

この墓誌銘の日付には、寛永十六年二月五日とある。すなわち西暦1639年ということか。徳川時代の初期に、吉信の子の名義で作られたものである。文面は石川氏の古来からの出自、忠吉公から吉信が受けた恩顧と関ヶ原合戦での勇戦、そして公が病に倒れて死んだ後に吉信らが増上寺にて殉死を遂げた次第が書かれている。墓誌銘は最後、中国の故事典籍に言及しながら、儒教的な文飾に満ちた言葉で締められている。二十七歳の主君に二十六歳の家臣が殉死した記録である。そしてこの文章の起草者は、「尾陽路儒学教授兼医官 法眼容庵 正意誌」とある。幕府が始まった頃の武士たちの荒々しい強烈な忠義の情を、少し後の時代に後追いで儒学者が倫理的な意義付けを行なおうと試みている。そんな過度期の時代の記録であるようだ。