ようやく寒さがゆるみ、白川の柳が一斉に青めいた。
生命力の強い木である。中国人は、古来からこの春の柳の芽吹きをこよなく愛した。春分の二週間後の清明節を飾る樹木は、何といってもこの新緑の柳であった。冬には魚の骨のようだった弱々しい枝から、わずかの間に芽を出してこんなにも初々しく生え繁る。これぞ、春の神秘の情景だ。
三条通りが白川を跨ぐ橋が、白川橋である。橋の沿いに、このような石碑が建っている。
是よりひだり、ちおんゐんぎおんきよ水みち
と書かれている。
石碑の脇にも、文字が彫られている。読み下すと、このような内容である。
京都無案内旅人ノ為ニ、之ヲ立ツ
延宝六年戌年三月吉(日?)、施主、二世安楽ノ為ニ、、、
つまり、この石碑はこの近辺の有徳者が建立した徳川時代の道案内である。延宝六年といえば、西暦でいえば1678年のこと。四代将軍徳川家綱の末期である。幕藩体制はようやく完成に近づき、武断的傾向は根絶されて法治社会が完成した時代であった。前代をゆるがせたキリシタンの蜂起は収束し、殉死の風もこの頃には過去のものとなり始めた。武士はすっかり官僚となり、町人は自信を持ち始めた。この安定が、次代の綱吉期に元禄時代の都市文化の勃興につながっていく。早くも元禄期の前にこのような観光客への道案内が有志によって建てられていたのが、何とも当時の社会を映す鏡として興趣深い。
石碑のとおり、この川を下っていくと、やがて知恩院の門前に出る。さらに南に行けば、祇園かいわい。祇園を過ぎれば、清水寺への道となる。三百余年前と同じく、この川沿いの道が観光客への案内となっていることには、変わりがない。