« 『外務省に告ぐ』佐藤優 | メイン | 『可能なるコミュニズム』柄谷行人 »

『終焉をめぐって』柄谷行人

(カテゴリ:

○帝国とネーション
「この事態は、現在のトランスナショナルな資本主義が「一国」単位の経済を無効にしてしまっているにもかかわらず、なお産業資本主義が「国民経済」なしにありえないという矛盾を、中間的に解決しようとするものであるということができます。」(p17)
「古代帝国では、ローマ帝国がそうですが、普遍的なローマ法があり、それが遵守されていれば、帝国に属する各民族は、それぞれの同一性を保ちながら勝手にやっていることができたのです、、、中国の帝国にしても同じです。日本もこの帝国のなかに属していたわけですが、従属していることすらほとんど意識しないでやってこられたのです。」(p18)

PRCは、何を目指す?「帝国」か?版図内の民を暴力で同化する「帝国主義」か?「帝国」であるならば、いったい何の普遍性を版図に配ることが可能なのか?あるいは文化的に多様を許し、経済的に略奪を極める、モンゴル帝国→ロシア帝国→ソビエトブロックを目指したいのか?

○議会制の問題
「ハイエクのような自由主義者は社会福祉の拡大に反対しています。それは、国民と外国人の区別をすることになり、新たな移民を排除することになるからです。実際、民主主義者は、不況期においては、『国民』の保護と移民の制限を主張するはずです。」(p57)

ハイエクは、国家不要論者であり、ゆえにアナキストである。これは理論的には可能であるが、産業社会においては国家-ネーション-資本の環が崩れることはないので、不可能である。皮膚の内と外は、連続的であるか、それとも非連続であるか。分子レベルにまで接近すれば、分子の密度が濃いか薄いかの差があるにすぎず、ゆえに連続的である。しかし非連続である、という見方もありえるし、常識的にはこれが真理であると受け取られている。

「敵対と交換は、『交換』そのものの危うさに根ざしているのだ、と。」(p63)

外国人と交流・交易することは可能であり、そこには自然法がある。それは、私の経験からいっても確信できる。しかしながら、それが安全ではありえないということを、これまでの私はどうも見過ごしていたように見える。今の日本で湧き上がっている排外思想に対する上から目線の批判者たちは、「交換」の危うさに十分眼を向けていないのではないか。

「ファシズムの本質は、『すべてを代表する』ことによって、議会制における諸党派の対立を『止揚』してしまうような形態にあります、、、実際は、それは完了、あるいは行政権力の支配に帰結します。」(p67)

2000年代以降の日本は、ボナパルティズムであった。
小泉政権は、ボナパルティズムであった。これは、佐藤優氏の意見でもある。
鳩山政権は、必ずしもボナパルティズムでなかったが、官僚の壁を突破できず、結果的にボナパルティズムに墜落した。
日本の現在は、ボナパルティズムにより代表者がいない大衆の支持を受けた政治が支配し、それは実は官僚支配であり、しかしその官僚が無能であり国益を著しく損なってしまっていることが問題である。