さくらさへ紅葉しにけり鹿の声(明和八年九月三日)
蕪村のこの句が詠まれた旧暦九月三日は、新暦ならば十月十日ごろに当たるようだ。秋になれば、桜の木すら紅葉するのをあえて面白がった句だ。下の句には紅葉につきものの「鹿の声」を置いて作った非常に構成的な臭みのある句で、この句が詠まれたときに「鹿の声」が本当に聞こえたかどうかなどを詮索することすら、愚かというものだ。
今日は立冬。東日本では大風が吹いて、京都でも昼間にも関わらず一気に冷え込んだ。一時的な寒さだとは思うが、暦にぴたりと会った肌寒い秋空の日であった。京都美術館前の街路樹は急速に色づいて、後は枯葉を散らすばかりだ。
晩秋の午後は、光と影が濃い。この平安神宮や京都市美術館・国立近代美術館が集まる岡崎かいわいは、京都市中でも珍しく西洋的なすっきりとした街区と、敷地にゆとりを持った建築で占められている。
元は院政時代に「六勝寺」(ろくしょうじ)という上皇たちが建立した私的な大寺院が集まっていたところである。摂関政治が地方の豪族の台頭の前にゆらいだ時期に、パワーバランスの空隙を突いて一時的にこの国の皇帝が実権を握った時代であった。皇帝たちはついにこの国の主権者であることを再び思い出して、それにふさわしい専横を振るう快楽を取り戻した。そんな時代に建てられた、ささやかなぜいたくによる寺院だった。だが、日本は大陸中国とは違って、そのような権力のあり方は長く許されなかった。結局、それらの寺院は誰も復興する者も現れずに全て廃絶した。そこが明治時代になって、計画的に造営がなされた地区である。ここからも東山の穏やかな山並みが、よく見える。
夜の気温は一〇℃を下回り、ようやく朝の空気は「寒い」と形容するに値するところまで下がるようになった。広大な南禅寺境内の紅葉も今朝はところどころ色づいている。一番の見ごろまで、もうすぐだ。
境内前の西正面から南に向って歩けば、金地院(こんちいん)前の道を通ることになる。南禅寺の一塔頭(たっちゅう。脇寺)であるが、独立した構えを見せる堂々とした大寺である。道はこのまま三条通につながっている。
道の脇に、山のふもとの墓地に続いている路地がある。塀の向こうから一本の紅葉がのぞいていた。
路地の入口に据え付けられてある石柱によれば、奥に長谷川玉峰(はせがわぎょくほう)の墓があるという。長谷川玉峰。文政五年(1822)~明治十二年(1879)。呉春(ごしゅん)に始まる「四条派」の画人の一人で、呉春の異母弟である松村景文(まつむらけいぶん、安永八[1779]~天保十四[1843])に学んだ、、、しかし、日本画を見る目があまりない私であって、この人物のことは今調べてみるまで知らなかった。
琵琶湖疏水は、比叡山脈をトンネルでくぐり抜けた後、山科盆地でいったん地上に出る。天智天皇陵の北辺をかすめて、盆地の山すそを通る。そして再び粟田口の坂に至ってトンネルをもぐり、蹴上の浄水場前に湧き出して、京都盆地に水と電力を供給することとなる。言うまでもなく、明治時代に京都府の総力を挙げて行なわれた一大近代化事業であった。開通当時は蹴上に残るインクラインが象徴しているように、水運のためにも利用されていた。むしろ当初は水運を主要な目的として企画されたのであったが、やがて時代が進み鉄道の利便が発達するにつれて、内陸の水運交通はアナクロになっていった。昭和初年には、もはや若干の観光船が通る程度となっていたのである。現在は、特別な催し物のため以外には、舟が通ることもない。
高台寺の境内は、少し外れにあるこの山門から始まって、背後に広大に広がっている。現在は境内に店屋などが並んでいて実感できなくなっているが、実は東山屈指の巨刹である。天下人・秀吉の正室北政所が隠居した寺だけのことはある。
高台寺山門の前は、すでに落葉で敷き詰められていた。京都の紅葉の季節も、もはや盛りを過ぎようとしている。春に散る桜を楽しみ、秋に落葉を愛おしむ。日本人はつくづく散る景色が好きな民族なのだろう。見かけはひょろりと頼りないが、夏を過ぎてもなかなか散らない槿(むくげ)の花は、韓国の国花である。春夏秋冬の季節を問わず繰り返し咲くことのできる薔薇の花は、イギリスの国花である。いずれも散る景色を喜ぶ花ではない。一年のうちに二度もセンチメンタルな季節を経験する日本の民が、何につけても情緒過剰になってしまうのも、致し方ないことだ。