日本人(リーベンレン)、OK?
関空発の飛行機が遅延して、中正国際空港に到着したのは予定より一時間遅れて夜十時三十分だった。
入国審査の長い列、、、あ、入国カードをまだ書いていない。だがどこに置いてあるのか分からない。だから窓口に行って、聞いた。
「不好意思、請告訴我哪裡 disembarkment card ?」(漢語中級篇)
自分としては「すいません、入国カードはどこにあるのですか?」と聞いたつもりだった。この台湾旅行に向けて、私は漢語(標準中国語)をちょっとだけ勉強していた。わずか一ヶ月前から。その上発音の訓練など何もしていない。なのにこんなこみ行った表現をいきなり使った。
結果は当然、通じない。
やりとりしている間、何回か"Disembarkment card ? "と問うたら、入国カードを机から出してくれた。おかげで長い列の、しかも最後尾となってしまった。(とっさにこう言ってしまたが、空港の表示は"disembarkation"となっていた。"disembarkment"という名詞も同意語として存在しているようなのだが)
じりじり待たされていると、係員が向こうにあるもう一つの入国審査ゲートを指さして、乗客たちに「走吧!(行ってください!)」と誘導し始めた。そこで私も動くことにしたのだが、外国人が通れるのか確認のために聞いた。
「日本人(リーベンレン)、OK?」(漢語入門以前篇)
答えは、「OK、OK、走吧!」だった。これからの旅行でも、私のニセ漢語が時々出てくることでしょう。そんなこんなでようやく待合ロビーに出たときには、十一時を回っていた。これでは今日はどうやらほとんど何も行動できそうにない。
ちょっとしたことだが、空港の広告などを眺めていると黄色の配色が目に付く。何か彼らの購買意欲をそそるような、琴線に触れる色なんだろうと思ったりする。寺院や宮殿の屋根にも、彼らはにぎにぎしい黄色の瑠璃瓦や紅色の門柱を好んで使うし。
中正国際空港は台北県(台北市の周囲を囲む県。台北市は県から独立した「直轄市」である)の西隣の桃園県にあって、高速公路を使っても台北市内までバスで40分以上かかる。日本統治時代に作られた松山空港は市内の直下にあって、翌日に行った孔廟では飛行機が上空低くをかすめるように飛んでいったが、今は国内線にしか使われていない。
台北市は、淡水河が陽明山と観音山にはさまれた短い隘路をくぐり抜けてさかのぼったその向こうにある、盆地の中の大都市である。海岸から少し離れた地点にあるから、漢族が移り住んで来た当初の時代から島の中心部だったわけではない。伊藤潔氏の『台湾』(中公新書)にある鄭氏政権下の台湾の図によると、台北は当時まだわずかに一片の「墾殖地」が淡水の河口地帯から伸びていたにすぎない。鄭氏政権の基盤はあくまでも台南(当時の承天府)を中心とした、対岸の福建省に近い島西南部だった。
台北が島全体の首都となるのは、十九世紀も末期に近づいてからであった。1871年に発生した牡丹江事件とそれに引き続く日本の台湾出兵事件は、結局沖縄は日本領、台湾は清領という領土確認を行なうことで一応の決着を見た。しかしこれによって危機感を強めた清国官僚は、ようやく台湾の防衛が必要であることを認識するに至った。そうして1875年に福建巡撫沈葆楨(しんほてい)の建議が受け入れられて、北方の拠点として台北府が置かれることとなった。その当時すでに台北は現在の萬華区・大同区に福建省移民によってコロニーが建設され、茶の交易地としてにぎわいを見せていた。清国政府はそこに新たに城郭を構築し、1879年福建省の一府城として台北府が正式に開かれたのである。
それから五年後、1884年に新任の福建巡撫の劉銘伝(りゅうめいでん)は、当時いわゆる清仏戦争のさなかで艦隊を島北部に派遣して破壊活動を行なっていたフランスに備えて台北に自ら乗り込んだ。翌1885年に台湾省が福建省から分離して、台北府が省都となった。劉銘伝はそのまま新設の台湾巡撫に横滑りして、六年後に離任するまでの間に行政各局の設置、島民の人口調査と島の土地調査の実施、それと実現したのは劉の離任後であったものの基隆~台北~新竹間の鉄道の敷設にも着手した。劉の事業は、そのまま日本統治時代の行政の基礎部分に継承されることとなる。
今日は夜だから外の景色は何もわからなかったが、三日後の早朝に同じ道を中正国際空港まで戻っていった際に両脇に広がっていた朝焼けの中の風景は、まさしく豊かな穀倉地帯だった。香港とは全く違う。香港は、もともと火山性台地が海に突き出している不毛の島々を、イギリスが人工的に港を建設して人が住めるインフラを打ち立てた都市である。だからあくまでもそれはむき出しの「都市」であって、北の新界(New Territory)にわずかに拡がる郊外に行っても、めぼしい農村は見ることができない。しかしどうやらこの島は、香港とは様子が違うようだ。山々の緑も、香港のはげ山と違って暗くて奥深い。
西門町、西寧南路にあるホテル「一樂大飯店」にバスが着いたときには、もう日付が変わっていた。
前の香港の時と同様にガイドツアーなし、ホテルと航空券オンリーのツアーで来たのだが、料金は大して変わらないのに香港で泊まった超高層ホテルに比べてずいぶんひなびていた。特に部屋の廊下に通じるドアの下に隙間があって、隣の部屋からテレビの音声がガンガン入ってくるのにはちょっと困った。ひょっとしてテレビなんて無粋なものがなかった、よほど古い時代に建てられたホテルなのかもしれない。