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台北四十八時間 06/06/29AM09:00

(カテゴリ:台北四十八時間
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台湾名物、機車(単車)二人乗り - 観察篇



ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』Der Himmel über Berlinの冒頭近くで、刑事コロンボの役で有名なピーター・フォークが映画内での役もまた「俳優ピーター・フォーク」となって、映画撮影のために旅客機でベルリンの上空にやってくる。映画の中の「俳優ピーター・フォーク」は上空からベルリンを眺めながら、つぶやく。「ベルリンか・・・エミール・ヤニングス(1920年代のドイツ映画スター)・・・ケネディ(J.F.ケネディ。1961年に当時の西ベルリンを訪問し、"Ich bin Berliner!" - 私はベルリン人だ - と演説して群集を熱狂させた )・・・シュタウフェンベルク(1944年のヒトラー暗殺未遂事件の首謀者のひとり)・・・・ばあさんならこう言うだろう、"Go spazielen"って。」と。
この"spazielen"はドイツ語で、「散歩する」という意味だ。


私はあまり映画を好んで観る趣味がなく、観たとしてもストーリーの全体よりも、この"Go spazielen"のような一瞬のフレーズの方が印象に残ったりすることが多い。とにもかくにも、私が日本や外国の都市を観光する際の基本もまた、映画の中のピーター・フォークの言葉と同じく"Go spazielen"でやっていくことにしている。幸いにして足の力にはいささか恵まれている方だと思うので、この台北でもできるだけ足を使って都市を感じてみたい。


公園の設計は、イギリス仕込みの香港に比べて今一つあかぬけない。


公園の向こうに、台北で二番目に高いビルの新光摩天大楼が見える。公園は川に沿って走る市内高速道路の高架下にある大通りに面しているが、今は通勤時間帯だ。とにかく単車が多い。しかも原付やスクーター程度の小型車ばかりだ。その上、三台か四台に一台程度は、平気で二人乗りをしている。(写真はもうしばらく後に撮った、民権西路のものです)


車線いっぱいに横並び。大型バイクはあまり流行っていないようだ。


私も原付免許だけは持っているが、正直言って時速40km以上出すのが怖い。仕事の上でやむなく大阪市内の国道1号線を単車で走ったことがあるが、全く生きた心地がしなかった。それを同じくらい交通量の多いこの台北の大通りを、二人乗りで駆け回っている。もちろん二人乗りが法として許されているから、やっているに決まっている。昔市内に地下鉄すらなく、一人一台の単車を買う余裕もなかった時代に自然な方便として二人乗りの慣習が発生したのだろう。それが慣習として当たり前になってしまって、今のように昔よりはるかに豊かになって地下鉄も整備された時代になっても続いている。私も台湾に生まれていれば、時速50km以上で二人乗りできる体になっていたのであろうか。少なくとも単車に二人乗りで乗せて乗せられることができなければ、台湾人としてちょっと社会性に問題ありとみなされるのかもしれない。

(ところで単車を現地語で何と言うのかについてだが、辞書ではふつう「摩托車」(モートォーチョ)と書いてある。「モーターサイクル」の当て字である。ところが、台湾ローカルな言い方で、今回の表題のとおり「機車」(ジーチョ)という言い方もあって、漫画やネットのフリークサイトではこの「機車」の言い方のほうがむしろ多く出くわす。ただし、大陸中国ではこの言い方は通用しないようだ。)


朝からかっと照りつける炎天下の中を、北に向けて歩いていった。目指すは、現在の地名で大同(漢語つまり標準中国語の読みで、ダートン。以下特にことわらない限り同様)区に分類されている、大稻埕(ダーダオチェン)である。

この大稻埕の「埕」の字が、特殊なものだ。手元の漢和辞典に載っておらず、諸橋轍次大漢和辞典で索引すると、

埕(テイ) 福建で、蟶蛤(ていこう。マテガイ類のことだという)を殖する田。
とある。つまり、福建地方の特殊用語だというわけだ。


ここから先、漢語版Wikipediaの記事から得られた知見を基礎にして書いていくことにする。漢語版Wikipediaの台湾の歴史関係の記事は、相当に力が入ったものが多い。地元のネット有志たちのがんばりようが、透けて見える。

大稻埕の名は、この土地に大規模な稲の干し場があったことから名付けられたという。ただマテガイの養殖場の意味の「埕」がどうして使われているのかは、私にはよくわからない。この地はもともと平埔族(マレー・ポリネシア系の台湾原住民の中で、平地を生活拠点としていた人々)が漁撈を行なっていた土地であったという。そこに1709年、載伯歧、陳逢春、賴永和、陳天章の四名が墾殖地を築いた。以降漢人によって耕作が始まり、合わせて平埔族との間に鹿皮と布匹・米酒の交易が行なわれるようになったという。これが、大稻埕の始まりである。

大稻埕がコロニーとして繁栄し始める以前に台北で最も早く開けていたのは、現在の萬華(ワンファ)区に当る南の艋舺であった。「艋舺」の字は、原住民語の"Moungar / Mankah"に当て字したものである。艋舺における漢人の歴史は、清の雍正元年(1723)に福建省泉州の晉江、南安、惠安の三邑人が茅屋(小屋)を建てたときからはじまる。この晉江、南安、惠安の出身者たちは艋舺における貿易の支配勢力として、「頂郊」(ディンジャオ)と呼ばれていた。いっぽう三邑人とは別に、福建省泉州の同安出身者たちも艋舺の発展と共に一大族をなすようになった。彼ら同安出身者たちは、郷里にほど近い福建省廈門との貿易を主に取り扱っていたので、「廈郊」(シャージャオ)と呼ばれ、音から転化して「下郊」とも呼ばれていた。

この「頂郊」と「下郊」の両勢力が、歴史的用語で械闘(シェドウ)と呼ばれる私闘を起こすのである。1853年にそれは爆発して、台湾歴史上において「頂下郊拼」と呼ばれる。械闘とは福建省や広東省で宿痾(しゅくあ)のように頻発していた地域間の私闘騒ぎであって、台湾では福建省泉州出身者の集団と同省漳州出身者の集団との「泉漳械闘」が普通であった。しかしこの「頂下郊拼」は同じ泉州内の二つの地域出身者集団で行なわれた械闘で、台湾歴史上ややユニークである。械闘の結果「下郊」は敗れ、家屋財産を破壊されて艋舺から逃げ出さざるをえなくなった。

艋舺を追われた同安人たちは、いったん北の大龍峒保安宮に走ったが、そこの同安人たちは彼らを受け入れようとしなかった。そこで南に下り、淡水河のほとりの大稻埕に移った。大稻埕にはそれよりも早い1851年に、同安人の林藍田が東の基隆(キールン)から海賊の難を逃れて家屋を建設していた。そこに同安人の集団が加わって、まちの本格的な建設が始まったのである。


この大稻埕の歴史を読んで思ったのは、「これはまるで日本の戦国時代の社会ではないか?」ということだ。政府にはまるで私闘を抑える力がなく、各々のコロニーが互いに地域的・経済的・宗教的利害から来る対立をストレートに暴力で解決しようとする。それは、わが国の戦国時代で見られた光景そのままではないだろうか?

河内国(大阪府)に、富田林という中世都市がある。それは一向門徒によって戦国時代に建設された都市なのだが、堀を巡らして見張り櫓を掲げ、「あてまげ」という設計技法によって道路を意図的に屈折させて容易に敵が都市の中心部に侵入できないように工夫されている。つまり、防衛都市なのだ。いっぽう、私は次の日の旅行で台北の北にある惠濟宮(旧芝山巖祠)に足を運んだ。実はこの恵清宮もまた、もとは十九世紀に「泉漳械闘」の中で漳人が避難するために築かれた防衛用の砦である。戦国時代の河内国は、守護の畠山氏に力がなくて三好氏、本願寺、高野山、根来寺などの諸勢力が実力で争っていた。富田林はその状況で作られた本願寺勢力の防衛都市だったわけだが、この台湾では十九世紀になってもまだ日本の戦国時代と同じようなやり方で、人民が自分の力で防衛体制を整えなければならなかったのだ。

いっぱんに中国の経済と技術は、明朝の時代まで日本や西洋を上回っていた。鄭和(1371? - 1434?)の船がそれより一世紀後の時代のヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)の船など比較にもならないほど巨大であったことは、よく知られている。その中国と西洋の格差が清朝末期の十九世紀になると、技術の面でも経済力の面でも勝負にならないほど逆転してしまっていた。同じ十九世紀半ばに西洋に向けて開国した日本にも、二十世紀になれば技術力・経済力ではるか後方に追いやられるようになった。おそらく両者が逆転した遠因を作ったのは、十六世紀から十七世紀にかけての時代であったのだろう。この時期に西洋と日本は政府にゆるぎない力を与え、かつ人民が政府に一定の権限を委譲して私闘をやめることを(どういうわけか)同意したのだ。その結果社会には良好な治安が保たれ、流通は妨げられることなく通貨には権威が生まれて経済発展の前提が作られ、何よりも見知らぬ他人でも裏切らずに誠実に義務を履行することがプラスの結果をもたらすという期待が生まれて、ビジネス社会の発展に堅固な基礎を作り出した。だが中国社会はそれをしなかった。だから、19世紀になっても台湾では「械闘」が頻発し、「三年小乱、五年大乱」と言われた状況が続いてしまったのだ。確かに徳川時代においても幕府や藩への農民一揆はあったし、地主との争議は存在した。しかしながら、人民どうしが武器を取って実力で殺し合いをすることなどは、それこそヤクザの出入りの世界程度にとどまるまで矮小化していたのである。この違いは、どうして起ったのであろうか。人類の社会の歴史の、一つの謎である。


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