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台北四十八時間 06/06/29AM10:30

(カテゴリ:台北四十八時間
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孔廟 - ビデオ鑑賞一回目



暑い。

まだ朝方なのに、自分が体力を消耗し始めているのが体で分かった。この炎天下の台北でいきなり歩き始め、体がこの気候の中での運動に慣れていない。このままでは旅行を続けられないと感じた。そこで"Go spazielen"はしばらくやめにして、地下鉄で移動することにした。とりあえず北の孔廟を見たら、一旦ホテルに帰ろう。そうしてシャワーを浴びて着替えを済ませて、次の行動に進もうではないか。すでに上着は汗でびっしょりとなっていた。


構内の両替機だけ、どういうわけか銀行が運営している。

MRT(地下鉄)民権西路駅から乗った。構内は広々とした造りで、森閑としている。以前香港の地下鉄にも乗ったが、あちらは列車がやって来るとやたらと威勢のいいジングルを鳴らして、ビジネス都市の躁的な勢いを感じさせる構内であったが、この台北の地下鉄はなんだか慎み深くて、日本の駅に似た雰囲気がある。

一駅だけ北に上って、圓山(円山)駅で降りる。この駅を降りてしばらく歩けば、孔子さまを祀った孔廟(コンミャオ)がある。

その沿革を、台北市発行の日本語版パンフレットから引用しよう。

台北市の孔子廟は最初、清朝の光諸7年(西暦1881年)、当時の知府(知事)陳星聚(ちんせいじゅ)によって台北城内の文武街(現在の一高女附近)に建てられ、文廟(台北儒学の小学校)と呼ばれました。惜しむらくは、日清戦争後、日本軍が進駐した折、廟内の禮器は破壊され、その後老朽化が進み、建築が荒廃されたまま放置され、光諸33年(西暦1907年)遂に日本軍によって取り壊されました。

今当市の大龍峒にある台北孔子廟は、台北名士辜顯榮(こけんえい)と陳培根が土地と経費を寄付し、且つ多くの孔子を尊敬する人達の寄付により完成したものです。民国16年から44年(西暦1927 - 1955)までに数回の拡張、修繕を重ね、ようやく今見られるような規模になりました。廟の中には大成殿、崇聖祠、東西廡(ぶ)、東西廂、儀門、櫺星門(れいせいもん)、義路、禮路、泮宮(はんきゅう)、黌門(こうもん)、泮池(はんち)、明倫堂及び萬仭宮牆(ばんじんきゅうしょう)などがあり、敷地総面積は4,168坪、建坪1,600坪、建築様式は古代宮殿式の制度を採用し、曲阜孔子廟をモデルとし、閩南の建築作風を取り入れた、泉州の名匠王益順の自信作です。


このパンフレットに出てくる辜顯榮という人物は、日本統治時代の台湾史で必ず出てくる。その息子の辜振甫はまた、戦後台湾の政経史に関わってくる重要人物である。だが彼らについての詮索は、今はとりあえず置いておこう。とにかく、この台北市孔廟は、日本統治時代の1925年に地元の名士たちが音頭を取って寄付を集めて造られた、私立の孔子廟である。現在は辜振甫と陳培根の跡継ぎである陳錫慶の両氏によって国に寄贈され、台北市に移管されている。ゆえに公営である。


wikipediaから引用。

これは私の撮った写真ではないが、孔廟の南の壁である。ここに書かれている「萬仭宮牆」とは、『論語』子張篇のこのエピソードから取られた言葉である。

叔孫武叔、大夫ニ朝ニ語リテ曰ワク、子貢ハ仲尼ヨリ賢ナリ。子服景伯以テ子貢ニ告グ。子貢曰ワク、諸(これ)ヲ宮牆ニ譬ウレバ、賜ノ牆ヤ肩ニ及ブ。室家ノ好(よ)キヲ闚(うかが)イ見ルベシ。夫子ノ牆ヤ数仭、其ノ門ヲ得テ入ラザレバ、宗廟ノ美・百官ノ富ヲ見ズ。其ノ門ヲ得ル者ハ或イハ寡(スク)ナシ、夫子ノ云エルハ、亦(また)宜(うべ)ナラズヤ。

魯の大夫(たいふ。上級家老)の叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)が、朝廷の場で他の大夫に対して「子貢(しこう。孔子の弟子の端木賜子貢)のほうが、仲尼(ちゅうじ。孔子のあざな)よりも優れていますよ!」と言った。大夫の一人、子服景伯(しふくけいはく)がこのことを子貢に告げた。子貢は、こう言った。
「宮牆(きゅうしょう。宮殿の塀)にたとえてみましょうか。このそれがしの牆(しょう。塀)は、せいぜい肩の高さ程度です。だから中の家屋の綺麗さを見ることができるのです。しかし、孔子の牆は、高さが数仭(すうじん。十メートル前後)です。門を見つけて入らなければ、宗廟(そうびょう。祖先を祭る霊廟)の美しさと百官の数多さを見ることができません。孔子の門を見つけて入ることができた者は、ひょっとしたら少ないのでしょう。叔孫武叔どののおっしゃられるその言葉、正しいはずがありません。」


『論語』子張篇には、孔子が一切出てこない。孔子死後に弟子たちが残した言行録を集めたものである。その中で、「子貢のほうが孔子よりも優れているのではないか?」という批評をする人たちが何人か出てくる。子貢は弁舌爽やかで、強国の斉が魯を討とうとしていた時期に斉・呉・越の三国に玉突き的に遊説して諸侯をそそのかし、列強を相撃ちにさせて魯を救った。司馬遷は「子貢が一たび使いするや、諸国の形勢を打破し、十年のうちに五国はそれぞれ変貌をとげた」(『史記』仲尼弟子列伝)と評している。また彼は加えて金儲けの術にも長け、代表的な富豪として後世にまで名が響いた。司馬遷はまた『史記』貨殖列伝においても子貢を取り上げて、「孔子の名があまねく宣揚されたのは、子貢が補佐としてしたがっていたからである」と評価している。その頭の回転の速さは、孔子にすら「億(おもんばか)れば則ち屡(しばしば)中(あた)る」(『論語』先進篇)と嘆息させたほどであった。そのような優秀人の子貢だったから、彼を見ていた周囲の人々がもう死んでしまった孔子などよりもこの目の前の切れ者の方がきっと優れているはずだと思ったのはよく分かることだ。孔子なんぞ古い古い、結局諸国を回ってなーんにもできなかったじゃないか。そんな偏屈じいさんなんかよりも、仕事もできて金も儲ける当世のハイプロファイルエグゼクティブ、子貢のほうが優れているに決まっている。そうでしょ?子貢さん、あんたちょっと謙遜しすぎですよ!、、、

そのような言葉に対して、子貢は彼らの見識がいかに低いかを、宮牆の高さのたとえを出して諭すのである。あなたたちは結局、目に見える華やかさを見ているだけだ。表面的に仕事ができて金を儲けていれば、それだけで人間的に格上だと思ってしまう。それは、あさはかなのですよ。孔子の宮牆は数 仭の高さで、何もしなければ中身が見えません。だから人々は、孔子が何てことはないと速断する。しかし、孔子の真の豊かさを知るためには、あえて門から入らなければならないのです。そうすれば、孔子が私などよりもはるかに高い存在であることがわかるのです。真の宝は、よき人になろうとして発起せずにぼやぼやと世間を眺めているだけの人間には、見えてこないのです。見てくれだけで判断する心には、孔子の偉大さが分からないのですよ。、、、

優秀な子貢にこの言葉を言わせた、孔子は偉大であった。それに加えて、このように言った弟子の子貢もまた、高貴な魂の持ち主であった。いっぱんにこの「萬仭宮牆」の言葉は、「孔子の道は深遠だから近道などなく、儒教の正門から入って一心に修行せよ」という意味で捉えられている。しかし私はそのような修行主義的な読み方よりも、世間の軽軽しい風評を越えたところにある孔子と子貢の「士は士を知る」魂の共感の風景を賞味したい。


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境内に入った。

このお宮は、台北に数多くあるはなやかな道教系の寺院ではない。儒教寺院である。おいおい説明していくことにするが、儒教寺院は他の寺院と全く様式が違う。森閑とした雰囲気は、虚飾を排したエリートたちのための信仰拠点なのである。


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孔子さまを祀る本殿、大成殿。中には神像などない。孔子さまと、孔子の学問を最も伝えたと解釈される「四聖」、そしてさきほどの子貢や子路(しろ)、宰我(さいが)、朱熹(しゅき。朱子)などの「十二哲人」の位牌だけが安置されている。


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左の写真が孔子さまの位牌。その両脇に、孔子の弟子顔回(がんかい)、同じく孔子の弟子曾参(そうしん)、孔子の孫子思(しし)、そして孟子大先生の「四聖」の位牌がある。右の写真は曾参と孟子大先生の位牌である。

この大成殿の後ろは、孔子の先祖たちを祀った、崇聖祠。大成殿の右と左にある回廊は東廡(とうぶ)・西廡(せいぶ)で、ここには春秋戦国時代から清代に至るまでの中国歴代の著名な儒者たちの位牌が祀られている。董仲舒(とうちゅうじょ、前漢)、鄭玄(じょうげん、後漢)、韓退之(かんたいし、唐)、張横渠(ちょうおうきょ、北宋)、程頤(ていい、北宋)、王陽明(おうようめい、明)、顧炎武(こえんぶ、清)などと、有名人の名前がズラリと並んでいる。面白いことに、蜀漢の丞相諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の位牌まである。大義のために一心に生きて「倒れて後已(や)む」その姿は、儒教道徳の鏡であっただろう。

この東廡・西廡の中に祀られるためには、王朝の承認が必要であった。今のところ最も新しい歴史上の人物は、清代中期の儒者顔元(がんげん)、李塨(りきょう)の師弟である。王朝を受け継いだ中華民国政府によって、民国八年(1919)に認定された。この顔・李の師弟以来三百年近く、孔廟の中に祀られることが認められた人物は絶えていない。ところが最近、台北市政府がこの孔廟の中に劉銘伝(初代台湾巡撫)、蒋渭水(台湾文化協会の創立者)、連横(連雅堂と号す。『台湾通史』の著者)ら台湾史上の著名人たちの位牌を新たに追加すべきことを推進していて、物議をかもしているようだ。これがどのような結果になるのかなどわからないし、口を出してもしようがない。だが一時的な人気取りでなくて、今東廡・西廡に祀られている人たちのように数百年後にも位牌が残るならば、それで始めて定着したと言えるのではないだろうか。伝統というものは少しずつ変わっていくのが世の習いだが、どうして今の時代までこんなにも変化に慎重であったのか、その精神を汲むべきであろう。


こうしてここもひととおり見終わったかな、と思ったときに、廡(ぶ)の横にある視聴室の、案内の人に日本語で呼び止められた。「説明のビデオやってるから、見ときなさいよ。」



結局この後、孔廟に数時間とどまり続けることになるのである。

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