牯嶺街(1)
二日目も早々に起きる。昨日と同じく、ホテルの地下でバイキング形式の朝食。この一日も、市内と郊外中心に回ろうと思った。故宮博物院は、しっかり内容を見る気力があれば行くことにしよう。
この駅から和平西路を西に行くと、牯嶺街(クーリンジェ)の入り口に出る。この地区は総統府(旧台湾総督府)の南に位置して、日本統治時代に日本人の居住区であった。事前にこの地区について詳しく調べていたわけではなかったが、何となく「牯嶺」(大陸の名山、廬山の中の一地区)という風情のある名称が気にかかって、あえて足を運んだまでだ。
これは、、、?通りに面した超高級マンションの名前である。「元大欽品」とある。日本でも有名なスターの周杰倫(ジェイ・チョウ)もここに一室持っているとか。しかし私は台湾スターの追っかけをしにここに来たのではなくて、調べてみるとどうやらこのマンションの建っている敷地は、戦後に国民党の領袖の一人、何応欽(かおうきん、ホーインチン)の邸宅があったらしいのだ。
何応欽(1890年4月2日-1987年10月21日)、字は敬之、貴州興義の人。国民党陸軍一級上将。黄埔軍官学校総教官、軍事委員会參謀総長、國民政府行政院長を歴任する。1901年、貴州陸軍小学校に入学。後に武昌陸軍中学に入学する。1908年日本に行く。初め振武学校(清朝の軍官学校)に入っていたが、後に陸軍士官学校に第十一期生として入学。同時に「中国同盟会」(1905年東京で結成された、反清革命秘密結社。総理は孫文、副総理は黄興)に加入。1916年中国に戻る。1924年黄埔軍官学校総教官に任命される。北伐時期、国民革命軍第一軍軍長であり、潮梅警備司令を兼任。広東・潮州・梅州を経由して、福建を平定。その後、東路総指揮に任じられて浙江に入る。1927年、寧漢分裂(北伐時期に南京の蒋介石と武漢の汪兆銘が分裂して政府を建てた事件。結果は共産党員を粛清して財界と外国の支持を得た蒋介石の勝利となる)時期には龍潭で孫伝芳を大破して、その後に全軍総司令部総参謀長に転任。1929年、海陸空軍総参謀長に任命。1930年、国民政府軍政部長に任命。これから後、何度も軍事委員会行営主任に任じられて、「剿匪」(共産党撲滅作戦)の前線指揮を担当する。何應欽は九・一八事変(1931年9月18日の満州事変)の後、日本と華北問題について交渉し、塘沽(タンクー)協定(1933)と梅津・何応欽協定(1935。いずれも、国民党軍を河北省から撤退させるという協定。実力で日本に勝てないと判断していた蒋介石の意向による、宥和外交の結果である)の調印の責任者となった。
西安事変(1936年、張学良らが蒋介石を西安で監禁して国共合作・抗日統一戦線の結成を要求した事件)の時、何応欽は暫定的に総司令代行となって、張学良の武力討伐を主張した。日中戦争の爆発後、第四戦区司令長官、軍事委員会参謀総長などの職を兼任。1944年11月以降、連合国中国戦区中国陸軍総司令、重慶野戦司令部主任を担当。1948年、白崇禧の後任として国防部長となり、1949年、李宗仁が(蒋介石に代わって)総統を後任した下では、行政院長に任じられる。1949年台湾に行き、総統府戦略顧問委員会主任委員を死去の直前まで担当する。1982年、三民主義統一中国大同盟首任会長に選出される。
(漢語版Wikipediaより)
蒋介石と同じく日本の陸軍士官学校に入学し、そこで同じく中国同盟会に参加した。中国に帰って、広州の黄埔軍官学校では蒋介石が校長、何応欽が総教官であった。彼はまさしく蒋介石と同じ釜の飯を食い続けた盟友であり、国共内戦敗北後は同じくこの台湾に落ち延びて余生を過ごしたのであった。もっともその盟友関係も、裏に回れば相当にドロドロした内容のものであったようだが。ただしWikipediaの記事では西安事変のときに張学良討伐を主張した(そして蒋介石の助命を最優先してほしいという、蒋介石夫人の宋美齢の嘆願をはねつけたという)と書かれているが、これにはどうやら異説があるようだ。彼は政治家としては蒋介石の後塵を拝する役目であったが、軍人としては蒋介石などよりずっと優秀であったと評価されている。台湾に渡り、蒋介石よりも長く生き続けた。
この何応欽や、閻錫山(1883 - 1960)、白崇禧(1893 - 1966)といった戦前中国史の重要人物たちが、国共内戦敗北後に大挙してこの台湾に詰め掛けた。共産党政権下では生きられない面々が、呉越同舟でこの小さな島に乗り込んだのである。彼らにとってこの島は「仮の宿」であったから、彼らの目の黒いうちはあくまでも「大陸反攻」「毋忘在莒」(「莒(きょ)にいることを忘れるな」。戦国時代、燕国に国のほとんどを占領された斉国が、わずかに残った莒などの都市から名将田単(でんたん)の用兵によって国土を回復した故事のことを言っている。蒋介石の筆によるこの句の石碑が、大陸沿岸に残された中華民国領土である金門島に建てられている)であった。
こののどかな台湾で、梅津・何応欽協定の当事者である日中戦争史の登場人物の一人が1980年代まで健在であったというのは、痛烈な歴史だ。西安事変の張学良も、蒋介石への反逆者として戦後台北郊外にずっと軟禁され続けていた(1990年に軟禁から解かれ、95年にアメリカに移住して、2001年その地で死去)。だが大陸からの移住世代は大方この世にいなくなり、その二世、三世らはもはやこの島を「仮の宿り」などとはおそらく少しも思っていないであろう。時間は歴史の確執を、血を流す対決から政治のゲームの上での競争に作り変えるまでに消化したのだ。いや、この島のために、そのようであってほしいと願う。
マンションの遠景。下に、他の街では見かけない、黒い瓦屋根が見える。日本式住宅である。この牯嶺街の南辺の地区には、思ったより多くの日本式住宅が今でも残っていた。私は、その地区に立ち止まって観察を続けた。