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台北四十八時間 06/06/30AM10:30

(カテゴリ:台北四十八時間

芝山岩の上で(2)



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山の頂上に着いた。遠景にうっすら見えるのっぽのビルは、台北で二番目の高さの新光摩天大楼である。ここからTAIPEI101は、山の後ろに隠れて見えない。

だが「かなりきつい山道」という情報を聞いていたから少々身構えて登ったが、正直私の感想は、「これしきの山で大変だなどと言っていては、京都の伏見稲荷の参拝などとてもできないぞ?」と言っておこう。だいたいここはお宮さんなのだから、地元のオジイやオバアも参拝しているはずなのだし(実際していた)、何ほどの山道でもないはずだが?


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これが、芝山巖惠濟宮の正面である。このお宮で祀られているのは、「開漳聖王」と道教の文昌帝君、そして仏教の観音菩薩だ。開漳聖王とは唐代の実在の人物、陳元光(657 - 711)のことで、福建省漳州に入ってその地の蛮族などを平定する功を立てたという。後世の漳州人たちにとって、神として信仰されるようになった。今の士林に当る八芝蘭に移り住んだ漳州人たちは、近くにある岩山を故郷の山にちなんで「芝山」と名付けて、山上に開漳聖王と観音菩薩を祀るほこらを建てた(1751年)。開漳聖王を祀るお宮を「惠濟宮」と言い、観音菩薩を祀るお宮を「芝山巖」と言う。これが、この芝山巖惠濟宮の始まりである。後に道教の神、文昌帝君もここに合祀されるようになった。


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例によって華麗な装飾であるが、全体として保安宮のような繊細さには少々欠けると評価するべきであろうか。この廟そのものは何度も建て替え・修理が行なわれて、創建時そのままではない。


このお宮の裏に周り込む遊歩道が設けられている。政府が、歴史的文物を保存する公園として整備しているのである。私はそこに入っていった。


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その中に、一つの日本式の墓が建てられている。これが、「六氏先生之墓」である。墓の表面は、まだ全然古びておらず、新しい。これは1995年に士林國民小學校百周年を記念して、校友会有志たちが敷地を整備し直して建てられたという。この士林國民小學校とは、台湾総督府主任学務部長伊澤修二が明治二十八(1895)年に六名の教師を含む学務部員をひき連れて渡台し、この芝山巖惠濟宮の裏手の建物を借りて始めた「芝山巖學堂」(しざんがんがくどう)の後身の学校なのである。そしてこの六名の教師が、この墓の主である「六氏先生」なのだ。

「六氏先生」― 楫取道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の六名、加えて軍夫の小林清吉もいた ― は、渡台した翌月の七月にこの八芝蘭集落の隣の岩山に着任した。ここに、伊澤修二の下で台湾総督府学務部が開かれたのである。八芝蘭は台湾でも教育熱心な土地で、科挙の及第者をこれまでの歴史で多数輩出していた。芝山巖惠濟宮の中には、すでに地元民によって義塾も開かれていた。そのような教育熱心な気風のある土地だったから、伊澤たちも台湾人教育の橋頭堡としてふさわしいと考えてこの地を選んだのであろう。着任した教師たちは、早速現地の子弟への教育を開始した。最初は寺子屋のようなもので、生徒数は六、七人しかいなかったという。しかし年が明けた正月、事件が起った。伊澤はたまたま日本に帰っていて、教師と軍夫七名だけが居残っていた。そこに八芝蘭の人民が決起して彼らを襲撃したのである。伝わっている話によれば、彼らは人民に対して教育の意義を説得しようとしたが、通じずに皆殺しに会ったという。

どうして人民が教師たちを惨殺したのかの真実については、私はあえて憶測したりしないでおく。だが、この「芝山巖事件」がどのように理解されて、そしてどのように当局が評価したのかが、彼ら「六氏先生」の遺跡の取り扱いの歴史に大きく関わってきた。「六氏先生」の墓は現在ではこのようであるが、過去は全然違ったものであった。


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十年ほど前に建てられた「六氏先生」の墓の奥に、今度はもっと歴史の古い石碑が保存されている。「學務官僚遭難之碑」とある。これは、伊藤博文の筆の石碑である。


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こちらは、「故教育者姓名碑」である。かつての日本統治時代、これら「學務官僚遭難之碑」と「故教育者姓名碑」、並びにもう一つの石碑「台湾亡教育者招魂碑」の三つが、この芝山岩に並んで建てられていた(下図参照)。私が行った時には「故教育者姓名碑」の横に一枚の石碑がいまだ横倒しになって打ち捨てられていたが、わからないがそれがひょっとしたら「台湾亡教育者招魂碑」だったのかもしれない。

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この芝山岩は、日本当局によって次第に現地教育の聖地として意義付けられていった。そうしてついに昭和五(1930)年に、「六氏先生」や台湾の故教育者たちを祀る「芝山巖祠」が建立されたのである。


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戦争が終わって、全ては一変した。芝山巖祠は当然のように破壊され、石碑は引き倒された。逆にそれまで土匪の破壊活動として位置付けられてきた「芝山巖事件」の蜂起者たちが、反日抵抗の義士として顕彰されることとなった。上の写真は、戦後の民國四十八(1959)年にこの地に建てられた「芝山巖事件碑記」である。そこには義民たちが『謀った』のではなくて『奮起』して教職員楫取道明ら七人を殲滅して、来援に来た日本軍と応戦し、激怒した日本軍は士紳の潘光松ら六人を捕らえて殺害したと記されている。このような歴史評価の逆転の中で、「六氏先生」の墓もうち捨てられたままで、年月が流れたのである。

それが今、一部の石碑と共に、まがりなりにも公園の中で立っていることが許されているのである。私はこの後で「芝山巖祠」の跡地に作られた芝山公園雨農閲覧室に入って展示資料を読んだが、そこにはあくまでも日本統治時代を批判する市当局のスタンスが表現されていた。しかしたとえ彼らにとっては反面教師としての遺跡であっても、こうして歴史公園として整備して保存せざるをえなくなっている。私はこの事実から、この島の言論の自由の現状が、昔に比べてずっと悪くない地点に到っているのではないかという印象を受けた。当局が殖民地時代を一定評価する歴史観を持つようになったというよりはむしろ、反対意見や異論が封殺されずに一定の場を与えられているという事実がなければ、この公園のような現状はおそらく成り立たないであろう。


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