日本殖民政府は、台湾において日本語教育を推進しようとした。明治二十八年(1895)七月、台湾総督府学務部長伊澤修二は学務部を芝山岩(巖)學堂に移設して、殖民教育体制を開始した。明治二十九年(1896)に、「芝山岩(巖)事件」が発生して、六名の学務官僚が殺された。殖民政府はこの事件を記念するために、「學務官僚遭難之碑」を建てた。台湾が光復した後、士林地方の人士は「芝山岩(巖)事件」を抗日志士の行為であると指摘した。民國四十七年(1958)に國民大会は全員一致で「芝山岩(巖)事件碑記」を建てる件を通過させた。許昌揚國大代表の撰述により、一枚の石碑を立てて碑文を刻み、雨農閲覧室の前に掲げたのであった。(中略)「學務官僚遭難之碑」はかつて草むらの中に捨て置かれていたが、民國九〇年(2001)十二月、当時の写真による位置を参考にして、旧観に復元した。芝山岩(巖)事件は異なった歴史観によって異なった解釈が行なわれており、石碑の処理に関してもまた、見解が一致していない。わが市政府は学者・専門家に幾度となく調査・研究を依頼することを通じて、客観的に歴史の全貌をことごとく見分けて、もって殖民主義の統治恩恵と統治策略を明らかにしてきた。当初、しばらくは現地において保存することを原則として、平衡を取って公平な方式で雨農閲覧室の前に並立させる。最終的に両碑は博物館かあるいは文物館に移して展示する予定である。
台北市政府文化局 謹んで誌す
中華民國九十二年十二月
ここに書かれているとおり、将来この碑と「芝山巖事件碑記」はこの芝山岩から撤去されて、どこかの博物館か文物館に陳列するのが市政府の意向であるという。そしてこの件についても、背後には推進派・反対派のつばぜり合いがあるようだ(漢語のこの記事と、それに反論したこの記事など)。台北の南の烏來においても、今年2006年の二月に「高砂義勇隊紀念碑」の創建を巡って創建者側と県政府とのいさかいがあったばかりである(漢語のこの記事参照。紀念碑は現在撤去されているようである)。
プレートの説明のとおり、、「學務官僚遭難之碑」の前には雨農閲覧室がある。この施設は、もと芝山巖祠があった土地の上に作られたものである。資料閲覧室なのだが、中は日本の図書館の自習室みたいな使われ方をしていた。涼しくて格好の自習場所なのであろう。その壁に、台北市政府の用意した芝山巖事件とその後の歴史的経過について詳しく説明する写真つきパネルが掲げられていた。
そこでは、例えば「六氏先生之墓」の建立について、このように記載していた。
、、、足見殖民統治之遺毒迄今猶未滌清。
殖民統治の遺毒が、今なお落とされずに残っていることを見ることができる。
また、芝山巖祠の建設については(訳)、
芝山巖祠の建設は、芝山巖の生態に極大的な破壊をもたらした。山頂東側の土地を平らにし、山頂にあった遺物を埋め立てて、大量の泥土をまいた。このほか、外来植物を導入して、造成は芝山巖の原始林相を破壊せしめた、、、
とまで書いている。呈示されている資料の合い間に、日本の統治への批判的視点が語られていた。
素直に考えても、過去の他民族の支配者を称えるような言動が人民のマジョリティーに喜ばれるはずがない。だから、台北市政府の上のような主張は、叩かれている日本人としての感情的なわだかまりを置いて見たならば、大変わかりやすいスタンスである。昔の時代と違って、選挙で議員が選ばれるようになった今はどの政党でも台湾の住民に向けてアピールしなければ、票を獲得することなどできない。だから、国民党も現在過去の台湾史の有名人らを顕彰する運動を行なっている。以前に挙げた李筱峰氏の『馬英九と台湾史を論ず』に収録されている写真によれば、最近の国民党中央党本部の前面には、過去の台湾史で日本支配に抵抗した台湾人たちの肖像写真が掲げられている。その中には、蒋渭水(1891 - 1931、日本統治下で、人民に台湾文化を啓蒙するための「台湾文化協会」を創立)、李友邦(1906 - 1952、日本からの台湾独立を目指す「台湾独立革命党」を設立。戦後、国民党政府により反政府活動嫌疑をかけられて銃殺)、モーナルーダオ(1882 - 1930、原住民タイヤル族で、1930年に起った日本人大虐殺事件の「霧社事件」の指導者)などがいる。李筱峰氏の目から見れば、過去に台湾独立運動を暴力で抑圧し続けてきた国民党が今さら台湾史の英雄たちを顕彰するとは「驚きのあまり跳び上がり、笑いがこみあげるのを禁じえない」(25ページ)ということなのだが、とにかくこのように「自分たちの島」への回帰の流れの中に政治がある。しかも、大陸中国との関係は極めてデリケートである。その状況で政治的に一番叩きやすい対象は、過去に「自分たちの島」を殖民地として支配した、当時の日本当局なのであろう。いくら客観的に殖民地支配の歴史を評価する視点を持ったとしても、過去の他民族の支配者を称えるような言動が主流となることはおそらくありえないだろう。
そのように、「自分たちの島」を称えれば称えるほど温度の差はあったとしてもマイナスの評価とならざるをえないのが、日本統治時代である。日本統治時代は、戦後の国民党による戒厳令時代と並んで、「台湾が本来の姿でなかった時代」として評価されるであろう。ただしかし、昔の日本当局は、現在まだここに続いて存在している国民党とは違って、完全に過去の歴史となった支配者である。だから、過去の国民党よりもずっと政治的に叩きやすい対象のはずだ。その状況があるにも関わらず、この芝山岩の公園で私が見た文物やその説明は、一方的な決め付けと破壊からは免れていた。いや、以前は一方的な決め付けと破壊の中にあった。それが1990年代以降に見直しがなされて、ある程度冷静な視点に立った上で歴史を残しながら批判しようとしている。そこに、過去を冷静に見据えざるをえなくなったこの島の言論の成熟を見てはいけないであろうか?台湾の言論においては、日本の統治政策がほとんどアナーキーに近かった清朝時代の台湾を高度な工業社会に作り変えたことは、もはや常識として語られているのである。
心配しなくても、この国が心底から反日になることは、おそらくないだろう。日本の文化がこれほどにも(一部の人が眉をひそめるまでに)好意的に受け入れられている事実を見れば、たとえ将来政治的な言葉上の物言いで何か反発があったとしても、現在の日本に対して何かと興味と関心を持つ人民の基調低音は変わりはしないと思う。もし真の意味でこの島の住民が反日となる日が来るとするならば、それは台湾人が常に感嘆して眺めてきた日本人の創造力のパワーがついに失われて、かつ日本人の最大の美徳である謙虚さを捨てて傲慢になってしまったときなのだ。政治的民族でも冒険家民族でもない、職人的民族の日本人がこれらの美徳を失ったら、一体何の美徳が残るのであろうか?もしそうなってしまった時には、その時こそ、この島の人々は日本を見限るであろう。
打ち捨てられた石や鉄のベンチは、かつてここがにぎやかな神社であった時代の名残であろうか?公園の遊歩道の向こうにあって入れないので、おそらくここが公園として整備されたときに置かれたものではないだろう。芝山岩はこのぐらいにして、私は裏道から平地に降りていった。