空と ― ジャンクと ― マングローブ!
芝山岩で色々と調べ物をしたので、どうやら頭の力をほとんど使い切ってしまったようだ。もう故宮博物院をしっかりと見て回るだけの判断力が、頭に残っていない。
こんな状態で行くのは不幸だ、と思ったので、今回の旅行では故宮博物院行きをパスすることにした。また台北に来た機会に、じっくりと見ることにしよう。だがこっそりと意見を言っておくが、あれは大陸中国の宝であって、この島の宝ではない。蒋介石の知恵袋であった国際骨董品商の張静江(1877 - 1950)が、日中戦争時に北京から一番価値のある文物をごっそり持ち出して重慶に運んだものだ。それが国民党の大陸脱出と共に台北に運び込まれて、結果として台北の「故宮」の方にむしろ超一流の宝が入っている。だから、いずれあれは北京に返すのが筋だと、私は思う。
疲れた頭で、ふっとそう思った。
私は親から「お前は自転車を乗るときにも前を見ないで走る奴だから、絶対に車の運転をしたらあかん」と言われていて、自分でも車の運転をしたらたぶん死ぬだろうと予想できるほどなので、車の免許を持っていない。結果、車を転がして回る旅行のスタイルに愛着がない。そのため小さい頃から電車に乗って郊外に行く旅が大好きだった。私の育った関西地方には私鉄が縦横に張り巡らされているので、いくらでもプランを立てて知らない海辺や山の中に行くことができた。時には何の変哲もない工業地帯や平凡な住宅地が終点の線路にも、乗りに行ったものだ。今、ほとんど頭の中が空っぽになってしまったときに、やってみたくなったのは地下鉄の終点まで行ってみることだった。そういうわけで、芝山駅で切符を買ってMRT(地下鉄)淡水線に乗った。終点の淡水までの運賃は、郊外だから一声高い40元である。
台北市は盆地の中にある。その盆地の中を、淡水河が流れている。かつて淡水河を昇り降りして烏龍茶の運び出しが行なわれた。東シナ海の河口からさかのぼって、台北旧市街の艋舺、大稻埕で茶の積み出しが行なわれた。その後この川は運送用に使われなくなり、今では若干の漁船と遊覧船を除いて、川を上り下りする船影は見えない。
MRTの車内は静かで、日本の平日の昼下がりの車内のようだ。ビジネスマンなど乗っておらず、母親と、子供たちと、お年寄りと、そして観光客だけ。今日も激しく暑い日中の昼下がりを、列車は走っていった。ほとんど日本にいるような錯覚すら覚えた、私であった。
だが、列車が山の中をすり抜けて次第に淡水の町に近づいていくにつれて、目の前の淡水河は海のように拡がりはじめた。そこにやがて見え出した風景は、、、、ごくごく低木の緑の森が、河沿いに伸びている。その根元をよく見ると、木の幹が川の水の中に浸かっているのである。おそらく海水と混じって汽水(きすい)と化しているであろう川の水は、目の前からかなり向こうまで広がっている緑の森の中に入り込んで、水の中から無数の低木が生え出る不思議な光景を作っていた。
― これは、マングローブじゃないか!
そうだ。ここは台湾なのだ。西表島からほど近い、亜熱帯の河口地方。そこに特有の植生が、マングローブ林だ。それを、ここで見ることができた。台湾は、やはり南の島なのだ。おそらく、人間の開発が進む前は、淡水河沿いにもっと鬱蒼と広がっていたのであろう。おそらく昔に比べてずいぶん縮小したであろうとはいえ、まだMRTの沿線に多少残っている。ひょっとしてこの線路を作ったときも、削ってしまったのかもしれない。私は車窓からの亜熱帯の風景を喜びながら、人間の川辺に向けた進出線がもうそろそろこの線路の辺で止まってほしいものだ、といった矛盾した感想を持ってしまった。
淡水駅に着いた。明るい太陽の光が似合う、にぎやかだがどこかとぼけた味わいのある観光地だ。駅前はよく整備されて、清潔である。まず私はやっぱり駅前の屋台で、生フルーツジュースを買って飲んだ。グアバジュースが、甘酸っぱくて空き腹にうまい。
ほとんど海といってよい河岸を歩いていった。すると、そこで私が見かけたものは、、、、、
舳先(へさき)がそり返って、しかも水平に切り取られているような変わった形をした、漁船たちであった。赤色や青色でにぎやかにペインティングされていて、両脇には魚の目玉が描かれている。
ジャンク(戎克)だ。
小さいが、この特徴はまさしく中国伝統の船、ジャンクの様式そのものだ。竜骨を置かずに、箱を何個かつなげる形式で作られた独特の構造。竜骨がないから、舳先は尖らずにこのように水平にちょん切られたような形となる。船体に反(そ)りを思い切り効かせて、波に上手に乗れるように工夫してある。そして最大の「目玉」は、まさしく船を魚になぞらえて古来から必ずおまじない用の「目玉」を船に描き込むのだ。漢代の「船」(チュアン)にすでにこの構造は出現し、以来二千年間、この姿で造られつづけた。竜骨を置いた西洋船よりも速度は遅いが、頑丈さでは決して西洋木造船に負けることはなく、しかも平底だから浅瀬に乗り上げても顛覆しないという利点を持つ。明代の鄭和が操った巨大船隊もこのジャンクであった。十九世紀になってすら1846年から1848年にかけて、一隻のジャンクが中国から喜望峰を回ってイギリスとアメリカを回航した。この西洋で"Keying"(耆英)と名が記録されている船は、ボストンからロンドンまでを21日で航行してみせて、イギリスの新聞はこの中国の伝統船が航海に優れていることを賞賛したのであった(英語版Wikipediaの"Junk"の記事を参照)。
まさか今この淡水で、しかも結構新しいジャンクが見られるとは、思いもよらなかった。漁船として使われているようで、魚網を載せてエンジンが取り付けられている。ジャンクをジャンクたらしめているシンボルと言える目ん玉もきちんと付けられている。鄭和の船や耆英号と同じ伝統を享有しているのである。もっとも鄭和の巨大船が鯨とすれば、この漁船はせいぜいジャコぐらいでしかないが、、、、ともかく、ずらりと目玉を揃えて並んだちびっこジャンクたちの群れを見ると、まるで水上の不思議な生き物のようである。中国文化圏の人々は元来が陸地民で、「江湖」(ジャンフー)といえば無法者の世界の形容詞となっているくらいに、海や川の世界はイカガワシイものだと印象されている。そのような人々が水の上にこんなにユーモラスな船を浮かべることを思いついたというのが、何とも不思議でかつ興味深いではないか。