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巨大な石垣 - 方広寺

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一見何の変哲もない街中の道路脇に、いきなり背丈よりもはるかにおおきな石を並べた巨大な石垣が並んでいる。上の写真で、車と比べたらその大きさがわかる。


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これは、豊臣秀吉・秀頼の親子二代が建立した、方広寺大仏殿の石垣の跡だ。石垣の脇の石柱には、「天正十四年 豊臣秀吉寄進」とある。方広寺がいちおうの完成を見たのはずっと後の文禄四年(1595)であるので、天正十四年(1586)のものであると書かれているこの石柱の記述には、少し疑問符がつく。ともあれ、これほどの石材を京都の真っ只中に運んできたというのは、豊臣時代から徳川時代初期の土木事業がいかに大がかりであったかを表している。

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これらの石はどこから運んできたのであろうか。大阪城の石垣にも超巨大な石材が使われているが、大阪城は淀川を通じて海にほど近いから、船で運んで横付けすれば何のことはない。だがここは内陸の京都である。秀吉が作った大仏殿は慶長地震(1596)でいったん壊れてしまい、彼の死後息子の秀頼が復興させた。その材木を運搬するために、有名な豪商の角倉了以(すみのくらりょうい、1554 - 1614)が鴨川を開削して伏見から三条大橋までの高低差を平均化することに成功した。慶長十五年(1610)のことである。ここの巨石もまた、この時期に淀川をさかのぼって運ばれてきたのであろうか。それとも秀吉晩年の政務所であった伏見まで船で運んで、その後は陸地を引っぱっていったのであろうか。いずれにしても、その石運びの情景はさぞかし騒々しくてにぎやかなものであったろう。この時代は、おおかたが小さくて繊細な建築や絵画を好む日本人の美意識には珍しく、メガロマニア(巨大好み)な趣味が支配していた。

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石垣の上には、方広寺の境内がある。大仏殿は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てくる京都の名所であったが、寛政十年(1798)に落雷により焼失してしまった。後世に建てられた仮堂も二十世紀になって焼け落ち、現在残っているのはこの秀頼による再建時に作られた大鐘楼だけだ。鐘の表面には、有名な「国家安康」「君臣豊楽」のくだりを含む鐘銘が刻まれている。

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寺の隣には現在豊国神社がある。もとは大仏殿の境内であったところに、明治になって創建されたものだ。正面の唐門の脇にはキンモクセイが黄色い花を咲かせて、その独特の芳香を風に漂わせていた。