京都を代表する山といえば、東の比叡山と西の愛宕山だろう。
そのうち愛宕山は、地元民のための山であろうか。
この山の様子は、市街から眺めれば、まるで壁のように見える。
山頂は、壁の上に突き出たコブのようだ。まことに、見逃してしまいそうに、平凡な山容。そのくせ、これが京都府下の最高峰であったりする。しかし、一〇〇〇メートルにすら満たない。そう、京都府は沖縄県を除けば、域下に一〇〇〇メートル以上の地点が一つもない唯一の都道府県なのだ。山の神である愛宕神社は、東京・芝にも分祀されているがごとくに、全国に広がっている。だが、本社がここにあることは、あまり知られていない。愛宕山は、地元民のための、知る人ぞ知る山なのだろう。
一方、比叡山はといえば、これは王城のための山。間違いはない。
この山が朝廷にとって特別の意味を持っていたことは、歴史をひも解けばいやと言う程に出て来る。
王城鎮護の、寺がある。
延暦寺は、中世日本思想の源となった、日本の最高学府であった。法然、親鸞、日蓮。全て、まず比叡山に登り、それから物足りずに山を降りて行った。ここは、地元民のための山ではない。志ある者が登るべき、城なのだ。
山容も、王城の山、かつ学問の城として、高々としている。
初めて平安京に住み着いた人々は、この山を登りつめたときに、眼下に映る琵琶湖の大海を眺めて、その絶景に狂喜したことだろう。都の向こうに、大海がある。その間に、比叡山がそびえ立つ。この山は、自然の配置から、特別の崇拝を得るにふさわしかった。
そして、王城に隣合う、戦のための城。
寺域から麓の修学院に真っ直ぐ降り立つ雲母(きらら)坂は、まことに狭くて険しい。かつてはこの道が、勅使を迎える比叡山への本道であった。(だから、雲母坂は別名として勅使坂、表坂とも呼ばれる。)
この表坂を昇り降りして、歴史上多くの騒動、戦が繰り返された。当然のことだ。都を支配する勢力ならば、必ず比叡山の戦略的重要性を知っている。だから最後に信長は、この山を寺でも学府でもない、むしろ度し難い城であると喝破して、配下に命じて焼き払わせた。信長はさらに、南の白川の麓に山中越(やまなかごえ)の街道をあっという間に切り拓いて、東と京都を結ぶために比叡山を越える必要を、根絶してしまった。
信長以降、比叡山は過去の山となった。
京都も過去の都となって、今は都市も山も、観光で生きている。
そんな比叡山に、冬の合間の暖かな日、数年ぶりに登ってみた。
麓は、日中十五℃に近づくほどの、一月にしては異常なまでの、暖かさ。もちろん、雪などどこにも見えない。
山上ならば、どうであろうか。銀閣寺道から延びる、最も開けた登山コースを、朝から進んで行った。