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比叡山(その3)

(カテゴリ:半徑半里圖會

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冬の合間の暖かい一日、久しぶりに比叡山に登った。
以下に、ショート紀行文と、グゥグルマップをば用いた登山図を、置くものなり。

ケーブル延暦寺駅へ向かう道は、引き続きひたすら階段道を登ることになる。勾配は、かなりきつい。
途中、明王堂に向かう分かれ道がある。明王堂の向こうには、親鸞上人ゆかりの大乗院。そこから先には、京都から反対側の坂本に降る山道(無動寺道)が、続いている。

階段道の途中で、ご年配の夫婦が休んでおられた。
大乗院への道を聞かれたので、まずは地図程度の知識で、教えた。

― お父さん、その服装やったら、山登りは厳しいんと違いますか?

お父さんの服装(とりわけ、足の皮靴)が、どう見ても登山向きには見えないので、心配して聞いた。
― 今年、90ですよ。来年は、91だ。

お父さんの言葉に、驚く。
聞けば、ご夫婦はケーブルで山上まで登ってから、大乗院に行こうと思って急な階段道をここまで降りて来られたらしい。今休んでいるところは、大乗院までの道のりの途上。降りて行っても、引き返して登っても、急な階段のはずだ。
私は、そのとき不注意にも道だけ教えて、ご夫婦と別れてしまった。
一人で、昼間の石階段を登った。
冬の山なのに、ぽかぽかと暖かい。用意したセーターすら、羽織る暇とてない。今日の麓は、きっと暑いぐらいに違いない。

ケーブルの駅に、着いた。

着くや否や、心配になった。

― この駅まで戻らなければ、あの老夫婦は下山される術が、きっとない。

まさか、あの二人が山道を降って麓に着ける、はずがない。
、、、お父さんの、あの服装で。
私は、慌てて大乗院に向けて、石の階段を駆け降りて行った。

明王院の先に、大乗院がある。
行くと、案の定二人が石段に腰掛けておられた。

― いやあ、道の教え方がいい加減でした。すんません。

私は、お二人に謝った。
奥さんは、お父さんより若い。少なくとも、若く見える。
― ここから先の道が分からなくて、ね。それで、困っていたのよ。

大乗院は人がいなかったので、ここを管理している明王院に戻って、若い坊さんにここから麓まで戻るべき道を、詳しく聞いた。結果、坂本に下る無動寺道は、とてもお年寄りが進める道ではないことが、分かった。登り階段でも、ケーブル駅まで戻るしか、ありえない。予想の通りだった。
― もう、他に行くところは、ありませんか?

― 一生に一度は、比叡山に行きたかったのさ。もう寺は、ここに来る前に回って来た。

というわけで、ご夫婦と一緒に連れ立って、三人でゆっくりと談笑しながら、石階段の道をケーブル駅まで戻ることにした。無理せず休みながらと思ったが、なんのなんの、歳を思わせぬしっかりした足取りでおられた。さすがに、途中で数回休憩はしたが、、、訛りがないので聞いてみると、やはり関東から来られたお二人であった。埼玉に在住だという。

こうして、(改めて)ケーブル比叡駅に着いた。時刻は、昼12:50。(地図F)


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ケーブル駅の前は、展望台になっている。
見下ろした景色は、素晴らしい。
湖は遮る影なく青々と拡がり、沖島はくっきりと見える。
左には、比良山系の山々が、白い雪化粧をしている。
湖の彼方に、白い山の影が見えた。
展望台に据え付けられている図解に従えば、正面に見える白い山は、伊吹山だということだ。
その右奥にも、もう一つの白い山体が、はっきり見渡すことができた。
展望台の図解に従えば、それはなんと木曽の御嶽山であるという。
いずれにせよ、方向から言えば、はるか彼方の南アルプスの遠景であることに、間違いはなかろう。
なんという、絶景だろう。
私が生まれ育った畿内の地には雄大な風景というものがあまり見当たらないが、この冬の比叡山からの景色は、誇ってもよいかもしれない。

下りのケーブルが1:00に出発したので、私は老夫婦と別れた。
お二人は、奈良・大阪を巡ってから、京都に観光にやって来たと言う。
奥さんが、大阪と京都があまりに近くて、電車ですぐに着いてしまったので、びっくりしたと話していた。
他所の人から見れば、京都と大阪はあまりにもイメージが違いすぎて、遠く離れていると思われているのかもしれない?
大阪出身で京都在住の私は、苦笑してしまった。


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ケーブル駅で昼食を取って(手製のおにぎりと卵焼きだ)、さらに延暦寺に向けて進んだ。(地図G)
延暦寺の境内は、原則有料である。
登山のためにただ通り抜けるためには、入山口にある料金所のおやじ(私がこの日登ったときだが。場合によってはおばはんが座っているかもしれない)に対して、「通り抜けるだけ。拝観はしない」とハッキリ伝えなければならない。
境内の伽藍の屋根には、いまだ雪化粧であった。
今日の温かな日光を受けて、化粧がはがれて軒から雫がぽたぽたとこぼれ落ちていた。


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拝観しないから、通り過ぎるだけ。
「西塔・横川」と表示されている道が、雲母(きらら)越の下山道につながっている。(地図H)
下山道は、雪に覆われていた。
道の脇には、比良山系の雪山が、すばらしく眺められた。
実は、まだ比叡山の頂上に、行き着いていない。
頂上は、雲母越の道から脇にそれて、展望台のある方角にさらにあと少し登らなければならない。
だが私はあの麓の市中からいやでも見えてしまう醜悪な展望台が、大嫌いなのだ。
だから、登らない。
境内を通って、そのまま下山してしまう。


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水飲対陣碑から先は、雲母坂になる。(地図I)

石を削って切り通したような、狭くて険しい道。
横の岩を登山ステッキで削ってみると、ボロボロと崩れる。
この花崗岩がきらきらと光るため、雲母坂と呼ばれるようになったという説がある。


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この険しい道が、延暦寺への勅使の道で、僧兵らが強訴しに駆け下った道であるという。
先述の水飲対陣碑で記念されている千草忠顕卿は、後醍醐天皇の寵臣で、南朝方の公家武将であった。
足利尊氏が湊川で楠木正成を破って上洛したとき、彼は比叡山に籠り、この坂で足利方と攻防した。結果は、楠木正成同様、討ち死にであった。
たぶんこの坂は、意図的に狭く掘り削られているのであろう。この道を塞げば、比叡山が難攻不落となるために。兵どもが夢を馳せた、道とでも言うべきであろうか。だから、この雲母坂のコースは、現在でも気楽にハイキングできるような道には、なっていない。
私も、麓にまで降りる途中、足を踏み外して転んでしまい、手をすりむいてしまった。
こうして下りきれば、麓に音羽川の流れに合う。その先にあるのは、鷺森神社。
修学院のバス停に着いたのは、ちょうど午後3:00であった。麓の午後は、やはり汗ばむほどの陽気であった。(地図J)

― 完 ―